2012年12月30日日曜日

関係性とコミュニケーションがとても大事


 前々回の「ひたすら教科書をカバーする授業、研究発表(校内研修・研究)、そして選挙」以来、他にも共通点や同じような課題を抱えているものがないかを考え続けています。

 それほど、いずれも深刻な問題なのですが・・・意識している人は多くないようで・・・困ったものです。

 私が紹介した共通点以外に、以下のような共通点を送ってくれた人がいます。
古い仕組みで動いていること。
権威的であること。
「みんなのため」が掛け声になっていること。
男性原理のみで動いていること。

 あなたは、これらに納得されますか?


 私は、⑦として、関係性が築けるか/コミュニケーションが図れるかがあると思いました。いずれも、真の関係性も、コミュニケーションも築けていないのです。すべてのことのベースでありながら。白鳥さんが12月2日と9日に書いていたこと(=「互恵的な関係」の構築)とも通じます。


 あなたは、この大事な関係やコミュニケーションをどのようにして築いていますか? 授業で、校内研修・研究で、職員会議で、学校運営で、センター研修で、教育行政で、そして選挙を含めた政治や社会生活において。★

 しかし、学校が抱えている現状としてもっとも大きなものの一つが、この関係が築けない/コミュニケーションが図れない問題なのです(図を参照。出典:『校長先生という仕事』の130ページ)。あなたの学校、教委、センターでは、これらの問題を抱えていませんか?


関係やコミュニケーションはどのように築けたり、図れるのでしょうか? ぜひ、成功例をお持ちの方は教えてください。(吉田ないし白鳥pro.workshop@gmail.com


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ブッククラブの効用については、すでに『効果10倍の<学び>の技法』(PHP新書、2007年、52~55ページ)で紹介していたのですが、その後、先生たちが実際に授業で使ったり、私自身も教員研修とのセットで使ったりして、極めてシンプルな方法であるにもかかわらず、あまりにも効果が大きいので、ブッククラブについて紹介する本を書いてしまいました。来年の1月末に『読書がさらに楽しくなるブッククラブ ~ 読書会より面白く、人とつながる学びの深さ』(新評論)というタイトルで出ます。


 その中に登場するたくさんの事例は、当然のことながら、楽しく(⑤ ~番号は前回示した共通点の番号)、やる気や情熱や愛(⑥)をもって参加していますし、イベント(③)ではなく継続的に、自分たちが主役として(④)かかわっています。当然、空虚な言葉(②)は使われず、本音の対話が行われています。その結果、メンバー間の関係とコミュニケーションは回を重ねるごとに増していきます。
 私たちは、そのような大切な経験や練習を、いまどこで積んでいるでしょうか?

 この関係/コミュニケーション(⑦)と、主役(④)であることはコインの裏表の関係にあるような気がします。さらに、主体的に学んでいるか、主体的に考え、行動しているか(⑧)も大事な気がします。それはさらに、選択が提供されているか(⑨)や、自己評価や自己修正が可能か(⑩)、につながっていきます。

 こうしたことすべて(①~⑩)が、教科書をカバーする授業や、校内研修・研究や、職員会議や、学校運営や、センター研修や、教育行政や、選挙を含めた政治で欠落していると思います。常に、「他人任せ」というか「自分とは関係ない」が付きまとっているのです。そんな状況で何かよくなることは考えられるのでしょうか?


 2013年は、ぜひ①~⑩をうやむやにしたままではなく、それらの中のいくつかを確実に転換していくことに挑戦しませんか。(その挑戦は、選挙や社会で起きている諸々のことと深くつながりあっています。クラスや学校で日々していることと、社会や会社等に入ってからしていることは、「入れ子状態」になっていますから。悪い癖は、学校や教室の中でなくしておかないと、誰も望まない悪習慣が延々と続いてしまいます。)


★ ちなみに、これらはすべてつながっています。別物ではなくて。一つのことでできて、他のことではできない、というふうにはなかなかなりませんから。また、一つのことでできるようにできれば、他に応用可能だということです。
  そういえば、免許更新制に伴う研修も、確実にこのリストに含まれます。これは、前安倍政権の産物の一つでした。今度は、どのような無謀な政策や事業を教育分野で打ち出してくれるのでしょうか?

2012年12月23日日曜日

あなたのオススメの本は?


 ① あなたが今年1年間に読んだ教育(関係)書のオススメは? あるいは、
 ② 今年1年間に見聞きしたいい教育実践は?

 ぜひ、いずれか(あるいは、両方)を教えてください。
 下のコメント欄か、吉田宛(pro.workshop@gmail.com)にお願いします。

ちなみに、私のは(私の「読書ノート」から書き出します。読書ノートは、読んだ本のタイトル、著者名、出版社名を、図書館から借りてきた日付といっしょに書いておくだけのものです。絵本も含めて、あらゆるジャンルの本がリストアップされています。良かったものには◎や○や△を、がっかりしたものには×をつけます。9割がたは何も印がついていません)、

     かなり挑発的なタイトルの『バカをつくる学校』ジョン・テイラー・ガット
     いまとなっては古典の『21世紀の教育よ、こんにちは』ジョン・ホルト
     『学習する組織』Peter Senge(1992年ぐらいに読んでいましたが、今回のは第2版の翻訳)
     『計画と無計画のあいだ』三島邦弘(学校とも授業とも関係ないのですが、アプローチの仕方として大いに関係あるので、あえて加えました。)
     『全校読書運動の記録』山口重直
     合本・母と子の20分間読書椋鳩十
     『せんせい、あのね』鹿島和夫(ミネルヴァ書房)
     『理解をもたらすカリキュラム設計』グラント・ウィギンズ&ジェイ・マクタイ(これも初版のを2000年ぐらいに読んでいましたが、今回のは第2版の翻訳)

     子どもたちが○○を楽しみかつ学んでいる/理解している/できることの証拠品を持ち寄って話し合う。(○○には各教科を入れます。「学校経営」の場合は「教師たちが」になります。)

実際に、○○に一つの教科ないし「学校経営」を念頭において、どんな証拠品がいいかを考えてみてください。
これをする方が、指導案検討会や研究授業+研究協議よりも、授業や評価を変えるきっかけになります。指導案や研究授業では「型」は破れませんが、こちらなら気軽に話せることもあって、学ぶこと、教えること、評価することの本質について話し合え、それをきっかけに思わぬ展開が期待できます。

もちろん、そのためには常にいろいろな情報を仕入れておくことが必要です。

ちなみに、PLC、授業改善、各教科指導、教員研修、学校経営関連で私が面白い(従って、ぜひ薦めたい)と思える本や資料(ネット情報を含む)の大半は英語のものです。日本語との量および質的な比較をすると、100対1とは言わないまでも、100対2か3のレベルがすでに過去数十年続いています。(見方によっては、そのレベルで今の日本の教育が維持されているのは、すごいことです。それが、100対4か5になったり、10や20になったりしたら、どんなすごいことになるのかとも思ったりしてしまいます。)
いったいこのギャップは、何が原因だと思われますか?


2012年12月14日金曜日

教科書をカバーする授業、研究発表(校内研修・研究)、そして選挙


  これらに共通するものは、何だと思いますか?
 (16日が選挙なので、今回は少し早めの投稿です。★)

 以下は、ある人が輪読会とブッククラブを比較して言ったことです。

「輪読会は、型文化の形骸化のように思います。型を守っているからできているように思っているわけですけど、形ばかり真似て、中身がスカスカ。まるで、素人が空手家の技を真似ているだけのような感じがします
この「中身がスカスカ」(①)は、ひたすら教科書をカバーする授業、研究発表(校内研修・研究)にも言えてしまうことではないでしょうか? そして、今回も含めたすべての選挙にも。中身を濃くしていくことが求められているのに。続いているのは、やった振りばかりです。

 他にも、共通点がたくさんあります。

 ②聞こえはいいけど空虚な言葉がいっぱい、③イベント、④主役の逆転(あいまいさ)など、です。

 ②の「聞こえはいいけど空虚な言葉がいっぱい」は、特に研究発表と選挙に顕著です。

 3つの悲しい現状は、③の一過性のもの(イベント)だからは許されてしまっているのだと思います。理解していなかったり、できていないなら授業や研修は続ける、自分たちが本当に満足するレベルになっていなかったら研究発表会は延期ないし断念する、そして選挙(有権者との関係)に関しては4年の一回(2週間程度)のイベントではなく継続的な関わりこそを構築する必要があります。しかし、現状はすべて長期間の関わりを放棄しています。できるだけ関わらないことを選択しています。

 ④の「主役の逆転(あいまいさ)」は、授業と選挙の方が接点は大きいかもしれません。授業も選挙(政治)も、本来は子どもたちや有権者こそが主役であるはずなのですが、実態は教師や政治家が主役であり続けています。校内研修・研究の場合は、主役は「なし」が現状でしょうか? 研究発表は、主役が実践する教師たちではなく、子どもたちや来訪する参観者たちに設定された時に、今までとは違ったことが起こり始めるはずです。

 共通点、他には考えられるでしょうか?


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 ⑤楽しんでやっているというよりも、イヤイヤというか、できれば避けたいものであり続けています。
 楽しめていないものや苦役としての取り組んでいるものから得られるものは「ない」とは言い切りませんが、楽しんでしていること、意味を感じ、熱中でき/成長し続けられるものからの方がはるかに得るものは大きいし、かつ多いです。

 ⑥当事者たちのやる気や情熱(や愛)はどこまで伝わってきているか?
 教科書をカバーする授業の授業者およびそれを受けている子どもたち、校内研修・研究(発表会)をしている教師たち、そして「清き一票」を訴えかける候補者から、どれだけのやる気や情熱(や愛)が伝わってくるでしょうか?

 他にこれらの共通点を考え出された方は、吉田(pro.workshop@gmail.com)までぜひ教えてください。
あるいは、3つ以外に共通点が見出せるものはあるでしょうか? たとえば、職員会議や学校経営や教育センター研修、そして教育制度そのものも、①~⑥は共通に抱えている問題ではないでしょうか?

型文化の形骸化に陥って中身がスカスカなものは、どんなに努力をした(時間とエネルギーを注ぎ込んだ)ところで、スカスカなままです。おそらく「型」自体を変えない限りは。
まずは、効果が検証されていない「習慣」から脱却することが求められています。
そして、より望ましい/受け入れ可能な改善案は確実にあります。これまで慣れ親しんできた方法よりもはるかに望ましい他の方法が。
たとえば、
授業のあり方として、作文教育に変わるライティング・ワークショップ(作家の時間)、読解教育に変わるリーディング・ワークショップはすでに紹介していますが、これらのアプローチは他の教科でも使えます。学校経営にさえ。
校内研修・研究のあり方としては、指導案検討/研究授業型に変わる「子どもたちが教科学習を楽しみかつ理解していることの証明(証拠品)」を持ち寄って話し合う方がはるかに効果的です。


★ 選挙の場合は、たとえ投票したからといって、何もよくなるとはほとんどの人が思っていません。政権公約(マニフェスト)を聞いて、期待を膨らませて投票する人もいるのかもしれませんが、政権をとってから見せられ続けているのは「改悪」ばかりです。(期待をもち続けるのは、その体験をまだ自分のものにできていない、おめでたい人たちと言えるでしょうか。その人たちの票が、自民から民主、民主から自民への揺さぶりの原因にもなっていると言えるかもしれません。)

嘉田さんは選挙演説の中で「いまのままでは選挙できる政党がないので、急きょ立ち上げました」と言っていました。しかし、その状態は日本未来の党が結党されても、まったく変わっていません。私たち有権者は、真の選択肢を提供されているでしょうか?

授業や研修・研究が変わらないのと同じで、選挙という「型」にこだわり続ける限りは、日本で政治が変わることは期待できないような気がしています。悪くなること以外は。

ちなみに、各政党が教育分野の政権公約として掲げているか(掲げていないか)を比較するだけでも、いろいろなことが見えてきます。いずれにしても、保守派の政党は教育現場にとって極めて危険であることはこれまでの経験が証明してくれています。同じレベルで何もしなかった/できなかった革新派(民主党は「革新」とは言えない!?)も問題ですが。要するには、「教育現場のニーズに応えてサポートをする」という発想自体を政党や官僚や、少なくとも中教審にかかわる学者たちはもっていないということだと思います。
 

2012年12月9日日曜日

生徒との面談


先月から三年生との面談を行っています。
 

 高校受験に向けて多くの生徒は第一志望をはっきりと語っています。

日ごろ、授業に出ているわけでもないので、なかなか一人ひとりと話をする機会もありません。朝の昇降口でのあいさつや帰りの下校指導などで顔を合わせることはありますが、語り合うという時間はないのが現状です。でも、面談と言う形で、一人ひとりの生徒と向き合うと、将来のことをこんな風に考えているのかとか、家庭での様子などが垣間見えて新たな発見がいくつもありました。

 

 また、「中学校の三年間で一番の思い出は?」と聞いてみると、一番多いのがやはり「修学旅行」です。本校は京都・奈良に行くのですが、京都のお寺や神社が印象的だったと答える生徒が多いです。中には、「二年生のスキー教室」と答える生徒もいたりします。よく聞いてみると、スキー教室の夜のイベント、クラスごとの出し物などがとても面白かったそうです。

 

 「部活動が一番の思い出」と答える生徒もいました。その生徒は3年間吹奏楽部員として活動したのですが、よく顧問から叱られている姿を見かけました。日曜日も朝から夕方まで実によく練習していたのですが、顧問から見ると練習へ取り組む姿勢が問題だったようです。本人も今回の面談時に、もっと早くから真剣に取り組んでいればよかったと言っていました。まあ、私から見ればよくやった生徒の一人だろうと判断しますが、本人の向上への意欲を聞いて、頼もしい生徒だと思いました。受け答えもしっかりしていて、3年間でこんなにも成長するのだと実感した次第です。

 

 中学校の三年間は小学校の就学期間の半分ですが、実に中身は濃いものがあります。

 この三年間で、人生の基本的な方向性がある程度決まってしまうと言っても過言ではありません。ここで、誘惑に負けてしまうと、とんでもない回り道をすることにもなりかねません。中学校教師の面白みは、そんな日々変化する生徒に接することができることだと思います。

 

 授業時数が増えて、放課後のゆとりがなくなり、多忙感の増しているのが中学校の現状ですが、前回このブログで書いたように、せめて職員間の「互恵的な関係」を築くことに配慮して、「忙しいが充実している」という職場を作りたいものだと改めて思います。

2012年12月2日日曜日

多忙感の解消


教育現場で「多忙感」が語られてしばらく経つ。

 先日読んだある雑誌に次のように書かれていた。
 

「一般に、教師は授業や子どもとの関わりが多忙であっても、あまり苦痛は感じない。それは教師のいわば本来的な仕事であり、教職に対する魅力でもある。これに対して、保護者対応や校務分掌などの諸活動が多忙になるほど、教師はストレスや疲労感を感じやすく、しかも本来の仕事に十分な時間をかける余裕が減少する。」
 

(「学校運営におけるリーダーシップとは」渕上克義「児童心理201211月号」金子書房)

 

 この文章に書かれていることは、現在、教職にある者の大多数が肯定する内容であろう。

そこで、「保護者対応や校務分掌などの諸活動」とある中の、「校務分掌」について考えてみたい。
 

ちなみに本校の校務分掌一覧表を見ると、全体が8つの部に分かれている。

教務部、学習指導部、特別活動部、生徒指導部、キャリア教育部、施設管理部、事務部、渉外部である。特別活動部やキャリア教育部を学習指導に入れたり、事務部と渉外部を合体させたりするという学校もある。

さらにまとめれば、教務、学習指導、生徒指導、事務・施設管理の4つになるのだろうか。肝心なことは、それぞれの部や係の中で、活動の精選が図られ、スリム化が実現されているかどうかということだ。

 

「選択と集中」とは、最近あちらこちらで聞く言葉である。これは校務分掌のなかでの優先順位にも使える考え方である。この仕事は学校全体として重要だと考えるから、特に手間をかけてやるというものがある一方で、書類が整っているレベルでよいというものもある。
そのあたりの仕事の順位付けは管理職がやるべきことである。

ただ、それによって減らすことのできる仕事量は当然限られている。残ったものは、やらなければならない。

 

次に問題なのは、それをどうやるかである。

先ほど引用した渕上さんの論文のなかに「集団効力感」という言葉が出てくる。

これは、簡単に言えば「自分たちで力を合わせて問題を解決できる感覚」ということである。

組織の中にお互いの信頼関係ができ、開放的な雰囲気が生まれると、互いに支え、支えられるという「互恵的な関係」が育まれるということだ。
 

渕上さんはこれをさらに次のように分析している。

「教師が自らの職場における互恵的な関係を認識するようになると、仕事に対する充実感だけでなく、心身共に余裕やゆとりを感じるに違いない。」(前掲書・p.103)

 

「多忙感の解消」は多くの教育委員会や学校の今日的課題の一つとなっているが、解決のヒントはこのあたりにありそうである。

渕上さんの論文の冒頭にある、次の一節も参考になるものだと思う。

 

「保護者対応や校務分掌に対する教師集団のまとまりが形成されている学校ほど、教師の仕事に対する誇りや満足感が高まる傾向にあることが見いだされている。」(前掲書p.99)

 

単なる仲間意識や教科指導におけるまとまりだけではだめなのだという研究結果が出ているそうである。やはり、保護者対応とか校務分掌という、どちらかと言えば精神的なエネルギーをより多く消費する問題に、組織として協力して立ち向かっていけるという雰囲気が充実感や満足感につながっていくようである。

 

このように見てくると、多忙感の解消のためには、組織のなかに「互恵的な関係」を築くことが必須である。それには、職員相互の信頼関係の構築である。そのためには、校長自らがその先頭に立つ気概をもち、率先垂範することである。
 
職員のなかには、性格的に問題があったり、仕事を遂行する能力が低かったりと、対応の難しい人もいるのが現実である。とかく、そういう人には「排除の論理」で接してしまいがちであるが、そうではなくて、組織の一員として遇することにより、最後には「互恵的な関係」が生まれるのである。これは、自分自身の経験からも頷くことができる事実である。

 

「リーダーシップ」という言葉を聞くと、リーダーがその組織の成員をある方向に引っ張っていくというイメージが一般的に強い。
 
しかし、今回取り上げた「多忙感の解消」には、その反対に成員がリーダーについていこうと思えるような組織、すなわちそのなかの人間関係を「互恵的な関係」に育てていくことに苦心するのが今日的なリーダーの役割の一つだと言うこともできるだろう。。

 

 

2012年11月25日日曜日

ブッククラブに参加しませんか?


前回、野球やスキーや料理がうまくなった要因を紹介しました。(とても重要なので再掲載します。)

野球とスキー:
・継続した
・自分よりうまい人の真似をした
・うまいやり方をイメージして、それに近づけるように練習した
・自分自身ではわからないところを見てもらい、アドバイスを受けた
・もっと上達したいという気持ちがあった
・練習することが楽しかった
・家族や仲間がいた

料理:
 自分の興味・関心に合わせた選択を提供されているか?
  予想や計画が立てられるか?
  十分な時間が提供されているか?
  アドバイスをもらえる人や相互に助け合える環境が提供されているか?


 それではいよいよ、ライティング・ワークショップ(日本で実践している先生たちは「作家の時間」という名称を使っています)の紹介です。

 これは、1960年代から70年代にかけてアメリカやイギリスなどで子どもたちの「書く力」がいっこうにつかない(日本も、同じころから同じ悩みを抱え続けていますが、いっこうにその教え方は変わりません。それは「読む力」にも言えてしまいます。そして、他の教科にも)ということで、どうしたら書く力がつけられるようにできるかを模索した結果誕生した方法です。それは、単純に本物の作家がしていることを追体験するという方法です。

 本当に書く体験をしたことのある人はすでお気づきの通り、①何を書くかを決める(題材選び)が書くサイクルの8~9割の比重を占めています。各テーマが決まったら、②下書きです。最初から清書の一歩手前のようなものを期待するのは無理です。下書きはあくまでも「筆に書かせた」レベルのものです。(最初から構成を考えて、その順番に書くよりも、「筆に書かせた」方が思わぬものが出てきたり、自分でも気づいていない発見が出来たりと、書く醍醐味を味わえる重要なステップです。)下書きは思いつきのレベルですから、書くテーマを読み手に伝わる内容にするためには、③繰り返しの修正が極めて大事になります。(実際、子どもたちも自分が書きたい内容を伝えたい相手に書き始めると、この修正の段階をいとわなくなります。教師が「もうそろそろ仕上げたら」とアドバイスしても延々と直し続ける子どもも出てきます。)なお、この修正の段階では、プロの作家もするように編集者の目というか、他者(子どもたちの場合は、友だちや親や教師など)の目を通すことも奨励されます。内容的に納得した段階で、④校正に入ります。これは内容が読み手に伝わりやすいように文章を整えることです。そして最後は、⑤「出版」です。それには多用な方法があります。作家の椅子に座ってクラス全員の前で読む方法、クラス文集や教室便りなどに掲載されて各家庭でも読まれる方法、直接読んでほしい相手に届けられる方法、一学期に1回ぐらいは自分が書きためた中でベストを紹介し合う「作家の日」の催しなどです。いずれにしても、読んだ人からはフィードバック(ファンレター)をもらいます。

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 これ(①~⑤)を図化すると、以下のようなサイクルになります。★


 従来(というか、いまもやられ続けている)作文教育との違いに気付いていただけたでしょうか? 興味のある方は、両者の比較をぜひ書き出してみてください。すでに書きましたように、同じことは「読むこと」でもできてしまいますし、他の教科でもできてしまいます。(私=吉田が考えた表を見てみたい方は、pro.workshop@gmail.com宛にメールください。)

 ライティング・ワークショップは英語圏を中心に1980年代の前半から行われるようになり、そのあまりの効果にその手法を「読むこと」に応用しようと思い立った人が、ライティング・ワークショップの特徴を分析したところ、①時間(十分に練習する)、②選択(書く題材や何を修正したり出版するか)、③反応(友だちや親や教師)、④枠組み(作家のサイクルと1時間の授業のサイクル)、⑤コミュニティ(「みんなが作家」という環境)が挙げられました。詳しくは、http://wwletter.blogspot.jp/2010/05/ww.htmlを参照してください。

 これは、野球、スキー、料理がうまくなるときの要因に似ているというか、ほとんど同じだと思いませんか?

 これだけ「宣伝」しても、なかなか理解してもらうことは難しいと思いますので、最後はお誘いです。タイトルにあるように、『ライティング・ワークショップ』を一緒に読んでみませんか? メールによる「ブッククラブ」という形式で。興味を持たれた方は、吉田=pro.workshop@gmail.comにメールをください。★★


★  ①題材の98~99%、②下書きの9割、③修正の3~7割、④校正の5%ぐらいは、⑤出版には至りません。それが作家のサイクルです。この数字を作文と比較してみると、面白いと思います。

★★ このブログを始める前にもう一人の書き手である白鳥さんたちとこの本を学校経営の視点でブッククラブをし、単に国語の授業改善のヒントが得られるだけでなく、他の教科の授業改善や教員研修の改善のヒントも得られることは証明済みです。
  さらに言えば、ライティング・ワークショップに取り組むことで、学校も含めた世の中でうまくやっていくために必要なたくさんのスキルが身につきます経産省が「社会人基礎力」文科省が「キャリア教育」として提唱している力のほとんどすべても身についてしまいます。

2012年11月18日日曜日

はるかに望ましい授業・研修のあり方


オーストラリアの理科教育への反応を、白鳥さんのを含めて、数人からいただきました。
その中の一つを紹介します。

毎回PLC便り拝読しております。
 今回記述の3点とも賛成です。
 特に
 興奮したり、発見できることが大事。
 唯一の答えが存在しない活動と子どもたちが意味を感じられる活動が大切。
 教師が学び続けることが大切。
 の部分に共感します。
 2007年の資料ということは,5年前にかかれたものということでしょうか。
 きっと今は実践が進んでいるんでしょうね。
 現在,本課では,問題解決能力向上のための授業デザインモデル,パフォーマンス課題とルーブリック評価を用いたパフォーマンス評価等の研究をしています。

 以下は、返信です。
メール、ありがとうございました。
オーストラリアは、私が最初に教育に足を踏み入れた1980年代の初頭からすでに、「教科書を使う先生は能力のない先生」と出会った指導主事が言っていたのでビックリしたことをいまでもよく覚えています。
「じゃ、教科書は何のため?」という私の質問に、「能力のない先生、自分で勉強しない先生のためにある」との答えでした。
その意味では、2007年に新たに言い始めたというよりは、長年言われ続けてきたことを、改めて強調したという感じだと思います。

その教科書も、1990年ぐらいには、私が1991年に訳した『ワールド・スタディーズ』という本をベースにしたものを社会科でつくってしまいました。
要するに、正解がない、生徒主体に学ぶ方法で教科書をつくってしまったのです。著者たちに聞くと、別に教科書をつくりたかったわけではなかったそうなのですが、オーストラリアは本のマーケットが小さいこともあり、生徒主体の学び方(興奮したり、発見できること 唯一の答えが存在しない活動と子どもたちが意味を感じられる活動を実現するには、その方が手っ取り早いと考えたからだそうです。

問題解決能力向上のための授業デザインモデル,パフォーマンス課題とルーブリック評価を用いたパフォーマンス評価等の研究をしています。
 これにも、ライティング・ワークショップとリーディング・ワークショップがそのまま使えてしまうのですが・・・
    国語で? とお思いでしょうが、できてしまうのです。

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日本の授業は、子どもたちが学ぶことよりも、教科書に書いてあることをカバーする(教えること)が優先されています。「学ぶ」ということを吹っ飛ばして、「教える」ことが横行している状態にある、とさえ言えると思います。それが、子どもたちがよく学べない最大の理由です。そこで、「学ぶ」とはどういうことかを考えていただいたわけです。

いくつかいただいた反応の中に、以下のものがありました。
野球とスキーがそれなりうまくなった理由
・継続した
・自分よりうまい人の真似をした
・うまいやり方をイメージして、それに近づけるように練習した
・自分自身ではわからないところを見てもらい、アドバイスを受けた
・もっと上達したいという気持ちがあった
・練習することが楽しかった
・家族や仲間がいた
などを思いつきました。

共感できる方は、多いのではないでしょうか?

私が、いい学校のつくり方を書いた『いい学校の選び方』(中公新書)の中で紹介したのは、料理がうまくなった先生の事例です。
       料理を学ぶことは自分が選んだ。興味があった。やる気になっていた。
       どうしたらいいか、それなりの予想がついていた。計画が立てられた。
       誰も私を急かせる人はいなかった。十分な時間をかけることができた。
       料理のうまい人たちを何人か知っていて、アドバイスをもらうことも含めて、その人たちとのやり取りを楽しんだ。

ちなみに、この先生の場合、自分が料理の作り方がうまくなった要因を書き出す前に、子どもの学びに必要なものについても書き出すように言われていたのですが、ほとんど書き出せませんでした。しかし、自分のことについてはスラスラ書けてしまいました。そして、その違いについて考えました。年齢に関係なく、私たちも子どもたちも両方が学習者でありながら、なぜ与えられている条件がこんなにも違うのか、と。そして、子どもたちは、
       自分の興味・関心に合わせた選択を提供されているか?
       予想や計画が立てられるか?
       十分な時間が提供されているか?
       アドバイスをもらえる人や相互に助け合える環境が提供されているか?
と。
以上は、この本の133ページに書いてあることです。

この先生が発見したことは、まさに「目からウロコ」としか言いようがありません。学校で行われている学ぶ/教えるという極めて当たり前の行為が、実は「人はどう学ぶのか」という基本的なことを踏まえることなく日々展開されている、という事実を浮き彫りにしてしまったのですから。

皆さんは、「人はどう学ぶのか」という基本的なことを考えられたことがありますか?
上で紹介したこと以外に、何か大事な要因を考えられますか?

このことがライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップとどう関係するのかまで紹介したかったのですが、長くなってしまったので次回にします。

今回のテーマに関連するようなご意見・ご質問は、下のコメント欄かpro.workshop@gmail.comぜひお寄せください。

2012年11月11日日曜日

小中一貫教育を考える


ここ数年、小中一貫教育を施策として取り入れる自治体が全国的に増えています。

私の勤務する地区でも、今年から市内全校での本格実施となりました。

 

まだ一年経過していませんので、全体的な評価はできませんが、ここまでの感想を述べます。

 メリットは、小中学校教員が相互に訪問する機会が増えて、お互いにどのような教育をやっているのかが、以前よりはよく見えるようになったということです。これまでは、確かにすぐ傍にある異校種の学校にどんな教師がいるのか、どんな教育活動をしているのかはほとんど見えてきませんでした。そのあたりを自覚して、小中連携を意図的に取り入れてきた学校(地区)は素晴らしいと思います。

 また、小中の9年間を一体のものとしてカリキュラムを考えたり、「教育の質保証」を考えたりすることは大切なことです。


 この小中一貫教育では、不登校対策等もその目的に含まれることが多いのですが、そこはそんなに簡単な話ではないと思います。「中1ギャップ」とよく言いますが、小学校と中学校のシステムの違いや学習内容などがその要因に挙げられています。確かに、教科担任制や定期試験など、中学校に入学して初めて出会うものがいろいろあります。ただ、それらによって不登校が引き起こされているとするのは、一面的な感じがあります。


 ここ数年の経験では、次のような傾向が見られます。

小学校時代に欠席がちの生徒は、中学校に入学して、夏休み前まではその多くがなんとかこれを機会にがんばろうという気持ちで、ほとんど休まずに来ることがあります。

しかし、夏休みを過ぎると、休みがちになり、そのうちほとんど欠席する傾向があります。これは、一つにはやはり学力問題が深く関係していると思います。小学校時代に欠席がちの生徒は学力面でも他の生徒よりも到達度が低く、授業そのものが理解できないということが多く見られます。やはり、授業がわからないというのは、だれにとっても苦痛なことです。きっかけは、友人との人間関係のつまずきだったりすることがありますが、その本当の要因は「学力問題」ではないかと考えます。

そう考えると、不登校生徒を減らすためには、少なくとも小学校卒業までに習得すべき学習内容をできる限り「おおむね満足」のレベルに引き上げることが重要です。そうだとすれば、小中一貫教育も、そのあたりに人もお金もかけるような方策が一番効果的と言うことになります。中学校の教員がたまに小学校に出かけて行き、授業をやってもそれで「学力向上」という成果はあまり期待できないということです。

中学校教員が小学校の学力向上に協力するという理念には大賛成ですが、それをやるには今の中学校は忙しすぎます。いろいろな○○教育が様々なところから要請されて、それをこなしていくだけでも大変な労力です。それにプラスして、「部活動」です。この部活動が今のように教員のボランティアによって支えられているにも拘わらず、そのことが正当に評価されていない現状は、いかにも日本的なことです。

そのあたりの整理がなされるには、まだしばらく時間がかかるでしょう。

それまでは授業以外の様々なことはできるだけ取捨選択して、できるだけ授業に優先して職員が向かい合えるような体制作りを管理職がやる必要があります。


今回のテーマに関連するようなご意見・ご質問など、pro.workshop@gmail.comぜひお寄せください。

2012年11月4日日曜日

先週の記事についてのコメント


先週の吉田さんの「オーストラリアでの教育の動き」について考えてみたいと思います。


「学校における理科教育に大切なことは3つある。

    理科教育は、教師(教科書)のシナリオ通りに行われるべきではない 〜 興奮したり、発見できたりすることこそが大事。

    唯一の答えが存在しない活動と子どもたちが意味を感じられる活動が大切 〜 生徒たちは自分の身のまわりの世界について理解し、重要な問題について考え、そして意思決定ができるようにしてあげるべき。

    子どもたちの学習材と同じレベルで教師が学び続けることから得られる自信が大切である。」


以下は、それぞれの項目について私が考えたことです。


     これは問題解決型・課題解決型授業、プロジェクト型授業の提言です。これは、教師が教え授けるという旧来の授業イメージしかない人にとっては、「基礎・基本」が大切であって問題解決など、「後回しでいい」という発想しかないようです。でも、その両方をバランスよくやることが今のわが国の教育に求められているものだと思います。例のPISA2003ショックによる学力向上の全国的な流れから、ドリル学習やらプリント学習ばかりがもてはやされた時期がありましたが、この国の特徴として、どうもどちらか両極に振れ過ぎることが欠点だと思います。


     「意味が感じられる」というのも、大きな課題ですね。

これまでは吉田さんがよく言われるように、教科書をカバーする授業ばかりでしたので、「なぜ学ぶのか」という必要感や自分の生活に身近に感じられるということが少なかったと思います。

 以前、中学校教育研究会、いわゆる中教研(理科)の県大会で、私の所属する地区が研究発表をする割り当てになった年がありました。そのときに、研究テーマをどうするかという話し合いをして、この「学ぶ意味が感じられる」ということを取り上げることにしました。その「意味が感じられる」という一つの方向として、「日常生活に関連があること」「自分たちの生活に身近なもの」を教材とすることに取り組みました。

 ほぼ半年間、このテーマで様々な教材を作りました。その結果、生徒はどう変わったか。やはり、以前より理科の授業に積極的に取り組む生徒が増えました。アンケート調査などでも、「理科が好き」と回答した生徒の割合も増えました。これは、「学ぶ意味が感じられる」ということがそのような変化を生み出した直接的な要因だと思います。そうなると、物事はうまい方向に働いていくもので、その後「科学クラブ」が設立されたり、そのクラブ員たちが「ロボットコンテスト」に参加したりして、全国でも優秀な成績を収めて、海外の大会にまで参加するようになりました。このような地道な種まきが結局はよい教育を支えるのだと今でもそのことを思い出します。�の「学び続けられる教師の自信」も今のことに関連しているのですが、当時の私以外の担当教師のなかに、この取組以降、次々といろいろな財団の研究助成を自分から見つけてきて、積極的に応募して、自分の勉強を継続させていく人が出てきました。それによって教師としての自信も一段と深めることができたのではないかと思います。このことも、実にうれしいことでした。


 校内研修も「研究授業/授業研究」以外のスタイルを取り入れるという話が以前ありましたが、放課後の時間にゆとりがなくなっている今、各自が時間を見つけて、数人規模での学びを続けていくことがますます求められていると思います。


 知り合いのある大学の先生が、学校訪問の感想を次のようにおっしゃっていたことがありました。

「これは憶測にすぎませんが、先生方は、教科書に書いてあることをしっかり説明できれば仕事の大半は終わるのという感覚なのでしょうか。だから、自分で教材を探し、自分のメッセージを込めて生徒たちと向かい合うなどいう経験はほとんどないのかもしれません。それでは、この仕事は何ともつまらないと思うのですが。・・・・」


 「教科書に書いてあることをしっかり説明できれば仕事の大半は終わるのでしょう」

 まさに、ここに問題があるわけですね。

 ここを転換していくことが、どんな教育改革よりも優先されると言ったら、言い過ぎでしょうか。


前々回の吉田さんの記事にありました

・学校独自の(年間)指導計画を実際につくっている事例

・教師にカリキュラム開発能力や授業力をつけてもらう試み

・子どもたちが主体的かつ活き活きと授業に取り組んでいる事例

・授業改善のために指導案に代わるものを模索している事例

・その他、「良かれ」や「当然」、「マヒ」や「思考停止」から抜け出す試みなど



ぜひ、白鳥ないし吉田(pro.workshop@gmail.com)にお知らせください。