2012年10月21日日曜日

指導計画


 指導計画は、何をどう教えるかのプランです。
 以下は友人の教師が、指導計画の現状について説明してくれました。
「それは学校単位で作ることが明記されています。しかし、教育委員会や教科書会社はモデルを示してきます(その後ろには文部科学省がいる??)。そこまではいいのですが、学校は忙しく、先生たちも指導計画/カリキュラムを作った経験がないので、教科書配列をそのまま順守している学校がほとんどです。学校はそれをほとんどコピーペーストしてカリキュラムをつくり出します。つまり、学校によってカリキュラムに個性があるはずなのに、それがまったくない没個性的なカリキュラムができあがっているわけです。それが僕の印象です。もっと、個性的であっていいはずなのに」

 彼これ30年前になりますが、数人の教科調査官と親しくさせてもらっていました。その中の一人(高校の世界史担当)が、「例えば、フランス革命はいつ始まって、いつ終わったのか」という一つの質問で年間教えてもらっても一向に構わないのです」と言っていたことを今でもよく覚えています。しかし、そのあとに以下のようにも付け足していました。「日本の教育で一番欠けているのは、教師のカリキュラム開発能力かもしれません。養成課程でも、現職研修でも、それは扱いませんから」と。
 ここでいう「カリキュラム開発能力」は、教師の「授業力」とほぼイコールなものと捉えることができます。それは、例えば『奇跡の教室』で紹介されているような。


 教育委員会も、教科書会社も(そして、文部科学省も)良かれと思ってしているのでしょうが、結果的にはそれが画一化の原因になっていることはこれまでの歴史が証明してくれています。最も大切な教師のカリキュラム開発能力を無視したまま、教科書をカバーする授業(その大半は身につくことなく、テストのために暗記され、そして忘れ去られる運命?)が続いています。

出発点は「良かれ」なのですが……、実際に起こっていることは「悲劇」です。しかし、みんな「良かれ」ないし「当然」と思ってやり続けていますから、実際にしていることが「悲劇」とは思えません。その間、子どもたちの学びの質と量は極めて低いレベルに抑えられた状態が続いています。教科書をカバーする(=教師自身が心底必要性と面白さを感じていない)レベルの授業が子どもたちにとって楽しいはずはありませんから。こういう状態に数か月~数年おかれると、ほとんどの教師は「マヒ」状態というか「思考停止」状態に陥ってしまいます。以前、「蝶を蛾にする」文化をもってしまっている学校および教育システムと書いたことと関連します。


 このような悲しい状況を回避するために、
     学校独自の(年間)指導計画を実際につくっている事例
     教師にカリキュラム開発能力や授業力をつけてもらう試み
     子どもたちが主体的かつ活き活きと授業に取り組んでいる事例
     授業改善のために指導案を中心にした研究授業+研究協議に代わるものを模索している事例
     その他、「良かれ」や「当然」、「マヒ」や「思考停止」から抜け出す試み
などを、ぜひ下のコメント欄かpro.workshop@gmail.com宛お知らせください。

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