2013年8月25日日曜日

校内研修のあり方


前回のこのブログで、以下のような文章を載せました。

『また、校内研修の「研究授業/授業研究」スタイルのやり方も、行き詰っているように思います。初任者レベルならともかく、ある程度経験を経た教師にとっては回を重ねても、それ以上得るものがなくなっているように思います。むしろ、単元レベル、あるいは小単元レベルの指導プランを開発していくことのほうが得るものが多いと感じています。・・・・』

 この部分の後半の下線部は、読んでいただいた方に誤解を招く表現でしたので、ここで訂正させていただきます。この前段で、「研究授業/授業研究」にはほとんど効果がないと言っておきながら、単元レベルの指導案づくりには可能性があるかのような書き方になってしまいました。私の本意は、単元レベルの指導案づくりではなく、「カリキュラム開発」です。

 大学などでの教員養成の段階の指導案づくりにはもちろんそれなりの意味がありますが、学校現場での指導案づくりを研修と捉えることにはもうほとんど望みはないと思います。

 

 最近、アメリカの優れた理科教師の実践を読んでいるのですが、子どもたちがそれこそ身を乗り出して、学習に取り組んでいくような授業は、やはり「カリキュラム開発」が鍵であることを再確認させてくれました。

 その先生の教室では、たとえば、年度初めに科学に関する基本的な情報を提供してくれる本を読む活動を行います。子どもたちは絵がたくさんある本を好むようです。時には先生が音読をして子どもたちに聞かせます。そのときには「考え聞かせ」というやり方で、先生自身が疑問に思ったことなどを声に出して、子どもたちに聞かせるということをやります。このように本を読んで考えるという行為を先生自らがモデルとなって示すわけです。

また、「Discovery Box」というしかけがあります。

このBOXは、電気、液体と固体、鉱物、川、光と色というように、科学の様々な分野ごとに、物質や現象の基本的な特徴が調べられるような道具や材料、簡単な検査器具などが入っているものです。子どもたちは、自分が調べてみたいと思う課題が決まったら、それに関係する「Discovery Box」を持って、調査する場所に行きます。教室だけでなく、校庭など建物の外に出ることもあります。そして、子どもたちは、Boxに入っている道具や材料を利用して、好きなやり方で調べていきます。その過程で、自分の疑問をさらに深めたり、整理したりするのです。その後、教室に戻って、Readingを行う時間もあります。もちろん、やりっぱなしではありません。自分のInquiry(探究活動)を文章にしてまとめることも行います。「Science Discovery Log」という記録用紙に、その日にやったことを記録していきます。このあたりもこの実践のすごい点だと思います。理科の時間と国語の時間のReading&Writingが実に見事に融合しています。

 これ以外にもいろいろと素晴らしい活動があるのですが、要するに、学校の中だけでの理科教育ではなくて、まさに子どもたちが本物の科学者と同じように学習できるのが、この先生のやり方です。最近、わが国でも「理数教育」に力を入れようとしていますが、それは単に中高生を理数系の研究機関に招いて、研究を紹介したり、簡単な実験をするという類のイベント的なものが多いように思います。そうではなくて、日々の授業のなかで、本物の科学の研究活動を行うという「Real Science」の実践がアメリカで行われています。単に、教科書にある実験を順番にこなしていくだけの理科授業では、最初から勝負になりません。また、いくら研究授業を繰り返して、指導案づくりに熱心に取り組んだとしても、このような授業は生まれてきません。校内研修に時間を割くとすれば、このようなカリキュラム開発にこそ集中しなければならないと考えます。

 

2013年8月18日日曜日

国の教育振興計画



この間、必要があって文部科学省のホームページを見ていたら、「第2期教育振興基本計画」が目に入りました。

 これがこの国の教育の基本指針です。

その各論概要に「8つのミッション」があります。

1番目が「生きる力の確実な育成」、相変わらず役人は「確実な」というフレーズが好きなようです。

その下に具体的な「アクション」があるのですが、「言語活動の充実」「ICTの活用などによる協働型・双方向型学習の推進」と続きます。

たしかに、「言語活動の充実」はわかりますが、それよりも「学習者主体の学び」が確立されることが大前提でしょう。「学びを第一とする組織」を作ることがまず必要です。

前回のテーマにあった「研修や研究」が機能していない現状を変えることから始めることもここを突破していくために必要でしょう。

さきほどの計画の「アクション」にも、「教員の資質能力の向上」として、「養成・採用・研修」の一体的改革を謳っていますが、現状をどう変えていくというのでしょうか。官制のお仕着せ研修は前回ブログの指摘のようにほとんど機能していないと言えるでしょう。また、校内研修の「研究授業/授業研究」スタイルのやり方も、行き詰っているように思います。初任者レベルならともかく、ある程度経験を経た教師にとっては回を重ねても、それ以上得るものがなくなっているように思います。むしろ、単元レベル、あるいは小単元レベルの指導プランを開発していくことのほうが得るものが多いと感じています。

そして、このような話題を日常的に職員室で語り合えるような職場の人間関係、雰囲気が最も求められているのかもしれません。以前に比べれば校内・校外の研修の機会は多くなっているのでしょうが、やはり大切なのは自分が所属している学校、共同体の中でのコミュニティとしてのあり様です。

そんな共同体づくりにそれぞれのレベルでかかわっていくことでしか、この国の教育のあり方は少しも変わらないのではと思います。

2013年8月11日日曜日

「研修」と「研究」が機能していない!

 学校(や教育委員会や文科省/教員研修センター)で行われている「研修」や「研究」がまったく機能していない、ということを発見してしまったので、書いた本が『「学び」で組織は成長する』(光文社新書)と『効果10倍の<学び>の技法 ~ シンプルな方法で学校は変わる!』(PHP新書)でした。

 80年代後半から90年代の前半にいろいろなレベルで行われている教員研修にかかわって、機能していないことに気づかされてしまいました。そして90年代後半から2000年代前半にかけて、機能している方法を探し続けました。もし、日本で行われている教員研修が機能していたら、わざわざ10年もの長い間探し続ける必要も、本を書く必要もありませんでした。

 機能していないものを、これだけ続ける理由はいったい何なのでしょうか?

 そもそも機能していないという意識がないからでしょうか?

 ほとんど(95%以上)の人にとっては、「やらされ感」しかありません。
 役立ったと言った少数の人も、実践に移す人は10人に一人もいればいい方です。実践までのハードルは結構高いだけでなく、必要なサポートが提供されることはありませんから。(いい実践を定着できる人は、さらに少なくなります。)

 その結果、いくらやっても授業がよくなることにつながるケースは100本に一つあるかないかの状況が続いています。

 基本的には、研修=授業ですから、研修が機能していないということは、授業が機能していないという致命的な状況にあることも意味します。

 さらには、授業=研修=組織ですから。授業や研修が機能していないということは、組織自体が学ぶ組織になっていないことを表わしています。また、会議も上の3つと同じに扱えますから、日々行っている会議を見てしまうと、授業や研修や組織でしていることも見えてしまいます。(なんと、あるアメリカの教育委員会では、ビデオに撮って公開できるような会議しかやるな、と言っているところもあるぐらいです。)

 ぜひ習慣(=悪習)に流されず、勇気を持って、研修と研究のやり方を変えてください!
 より効果的な方法は多様にあり、その中から選択すればいいのですから。
 そこからしか、学校は変わっていきません。
 要するには、学校にかかわる大人の学び方を変えるということからしか。

 どうせやるなら、単なる習慣(=悪習)をなぞるだけでなく、成功体験をしてほしいです。
 はるかに楽しい方法を試すことで、変わってほしいです。
 自分たちが楽しく学び、しかも使えた体験は、かならず子どもたちに伝播していきますから。
 (逆に、自分たちが意味があると思えないものや身につかないものは、授業で子どもたちを対象に同じことをする練習をしているようなものです!!)

 やっているフリをみんなでし続けるのは、あまりにも時間とエネルギーの無駄が多すぎます。(その結果が、子どもたちに還元されないのですから。)

 踏ん切りのつかない方は、黒澤明監督の映画「生きる」をぜひ観てください。

2013年8月4日日曜日

「学びの原則」に追加項目

 これまで約10年間、「学びの原則」は9つの項目で紹介してきました。
(これは、欧米で90年代から2000年代前半にかけて明らかになっていた脳の機能の研究から導き出されたものです。日本では、当時はまだ(そして今も?)脳の機能の研究を教育に生かそうという発想がありませんでした。しかし、「いい先生」と言われる人たちが当たり前にしてきたことではあります。その意味では、きわめて常識的なことでもあります。)
 しかし、前回の書き込みと最近の私の読書から、新項目を追加します。

 それは、いかに楽しめているか、と言うことです。
 それも、最後に加えるのではなく、筆頭に掲げたいと思います。
 それほど大切なことだと思うからです。

 指標としての、この「楽しめているか?」はかなり重要な気がします。

 それが、仕事であろうと、職場であろうと、個別プロジェクトであろうと、そして子どもたちにとっては「クラス」だったり、「授業」だったりするわけですが。

 皆さんの場合は、楽しめていますか?

 いったいどうしたら楽しみが増えると思いますか?
 教師が楽しめていないのに、子どもたちが楽しめるはずはありませんから。

 皆さんの学校の先生たちが授業を楽しめている度合い(割合)は何割ぐらいだと思いますか? 子どもたちが楽しめている度合いは?
 これは、きわめて大切なバロメーターではないでしょうか?
 7割ぐらい以下だと、まずいと思います。
 子どもたちが、教師の授業にお付き合いしていることを意味しますから。

 これと、これも前から紹介している「ライティング・ワークショップ(WW)が成功する要因」を比較してみるとおもしろいと思います。WWはとても楽しいので子どもたちが体育の授業と同じレベルで好きになります。その授業を教師が行事等でやらないと、「なぜ、やってくれないの?」と多くの子どもたちが聞いてくるぐらいに。

 なぜ楽しいか?
 本物の作家と同じことがやれるからです。
 いっぱしの作家として教師に接してもらえるからです。
 子どもや生徒としてではなく。
 関係のもち方は、きわめて大切です。

 また、自立した学び手になれるからです。
 いつも教師のいうことを聞いてさせられるのではなく。
 それは、「作家のサイクル」を年間を通して回し続けることで可能になります。

 そして、どんどん書くことが好きになり、かつうまくなっていきます。
 書きたいことを書くので、(たいがいの場合、教師以外の)誰か/読者に伝えたいことを書くので、うまくなります。



★ ちなみに、「おもしろい」と「楽しい」はまったく別物です。
  後者は、我を忘れて(時間も忘れて)熱中する、ということです。
  ミハイル・チクセントミハイの「フロー」の状態です。
  しかも、あとの残る可能性大のもの。
  それに対して、前者はその場限りのもの。