2013年9月29日日曜日

教科書で教える


教科書のメリット、デメリットが前回も話題になりました。

教科書をカバーするだけの授業なら、教師という職業も楽な仕事です。それなら、3年もやれば一通りのことはわかるでしょう。だから、教師になって3年ぐらい経つと、勉強しなくなる教師がいます。教科書をカバーするだけの授業なら、毎年同じようなことの繰り返しです。おそらく、つまらない授業になるでしょう。子どもたちはそんなものかとあきらめてしまうのかもしれません。

 

しかし、目の前の子どもたちの実態を踏まえて、指導プランを考えると、おそらく時間がいくらあっても足りないような状況になるでしょう。自宅に持ち帰っても、プラン作りに取り組まなければなせないかもしれません。でも、見方を変えると、こんなに充実した時間はないということにもなります。自分の経験でも、夜10時くらいまで学校に残って、翌日の授業の準備をしていたということはよくありました。

肉体的には疲労していても、心は実に充実していた記憶があります。あまり長時間労働することはほめられたことではありませんが、これが教師の仕事の面白さの一端を表しているのではないでしょうか。自分が苦心して用意した教材やワークシートが子どもたちの興味・関心をうまく引き出せたときの喜びは何にも代えがたいものです。これぞ、教師という仕事の醍醐味だと思います。

 

 今は大学生を相手に教えていますが、同様のことが言えます。一方通行の講義をいくら続けたところで、どれほどのものが学生の頭や心に残るのでしょうか。学んでみたいと思えるような学習内容があって、初めて学習が成立します。そのためには、それにふさわしい教材を用意する必要があります。この半年間、学生が「学んでみたい」と思えるような教材作りを絶えず考えています。それには、たくさんの本を読んだり、準備をしたりするのに時間がかかりますが、それでもやっていて自分が楽しく感じられる時間です。

 

 教師が教材作りやカリキュラムづくりに意欲をもって取り組めるような学校環境を作ることが管理職の大きな仕事だと思います。それには、まず校長・教頭が学び続けなくてはなりません。「管理の論理」は必要最小限にして、「学びの論理」を校内に行きわたらせることです。そんな学校を作ることが、校長・教頭という仕事の面白さでなければなりません。

2013年9月22日日曜日

教科書の+面と-面

9月8日の2番目の問いは、「教科書があること(教科書をカバーする授業をし続けること)のプラス面とマイナス面」でした。
そんなこと、これまでに考えたことありましたか?

教科書信仰が根深い日本では、そういう問い自体浮かべてはいけない状態が続いているかもしれません。

しかし、子どもたちの学び=カリキュラム開発という視点に立つと、避けて通れない大きな課題です。教科書と授業が一体のものとなっている限り、大半の子どもたちはよく学べない状態が続くことが約束されていますから。(皆さん自身の小学校~高校時代の記憶に照らし合わせても、そうなのではないでしょうか? 少なくとも、私はそうでした! 単に暗記しては、忘れるものでしかありませんでしたから。それが、勉強/学習では、勉強/学習がかわいそうです。)

 以下は、私が考えたリストです。
 賛成できるものも、できないものも含まれているかもしれません。
 加えられるものや異論がありましたら、ぜひ教えてください。

 どういうわけか、マイナス面はどんどん挙がりましたが、プラス面を挙げるのはしんどかったです。したがって、リストを増やすためにできるだけ「プラス面」は広範に捉えました。


  <メルマガからの続き>



教科書のプラス面

・あたかも、それをしていれば子ども達は学べるような錯覚を起こせる
・教師は当然教えた気になれる
・「すべて正解が書いてあるもの」(百科事典に近い存在)
・その教科のエキスパートの論理で書かれている(パソコンのマニュアルのように)
・準備しなくても(指導書がついているので)教えられる
・他の本や資料を探す必要がない
・ダメな教師ほど助かる?!
・同僚(隣のクラス)との差が生まれにくい
・文科省がお墨付きを出したものなので、これだけしていれば安心!
・それを受けて教育委員会もお墨付きを出したものなので、安心
・本来は各学校レベルで教育課程編成を行うことになっているが、教科書会社が懇切丁寧に用意してくれるので、自分たちでゼロから創る必要がない
・それにあわせた市販テストもたくさん作られているので、評価もお任せできる
・写真やイラストや多色刷りなどで、魅力度はアップしている (しかし、内容がよくなっているかといえば・・・)
・文科省や教育委員会が、何をどう教えるか管理しやすい (←マイナス面?)
・保護者も、マスコミも安心する
・勉強の目的を、教科書をカバーすることで統一しやすい?


教科書のマイナス面

・教科書で学べる子もいるが、そうでない子もいる(おそらく大半)
・目の前の子どもたちを知らない人たちが書いているものなので、書かれていることや教材と子どもたちがマッチングしないこともある(が多い)
・掲げられている諸目標が達成されるかは、これまでの実績からははなはだ疑問
・正解が書いてあるので、それを覚えることが勉強となり、主体的に自分で探り出す学習ができなくなる →「思考停止」状態
・理科なら科学者になる体験、歴史なら歴史家になる体験、数学なら数学者になる体験を阻み、素人とエキスパートのギャップをそのままにすることになりがち。(=テストでは点が取れても、わからない状態)
・生徒がよく学べるために欠かせない主体的に考える、質問する、探究する、応用するといった要素が極めて弱い
・必ずしも、「人間はどう学ぶのが効果的か」に基づいて書かれているものとは言えない → 教えること/学ぶことに対する誤解に基づいた産物
・教科書に書いてあることをなぞる単調な一斉授業になりがち
・「自立的な学び手」を育てるのとは反対のベクトルが働いている
・教師が学び続けることを妨げる → 出版界で一番本を読まない人種は教師、ということになる
・教師の創造性やチャレンジ精神を奪っている
・一番努力しない教師のレベルに合わせることになりがち(?)
・教師には、カバーしなければいけないもの、という義務感を生む
・選択がない (教師にとっても、子どもたちにとっても)
・教師にとって欠かしてはいけないカリキュラム作成能力を育てない/奪い去る媒体になっている
・教師、学校関係者から、自主性や創造力を奪っている
・カリキュラム、教え方(指導書)、評価も、すべて他人任せになる
・教科書の存在が、学ぶことの楽しさを制約していることは否定できない
・管理されやすい人間をつくり出す媒体になっている
・安心することと、学びの質と量の確保はまったく別物
・知識以上に大切な「考える習慣」やライフスキルを忘れさせる
・主役が教科書なので、あとはみんな脇役/従属者!


 少なく見積もっても、マイナスがプラスを5倍ぐらい(ひょっとすると10倍以上)上回ると思いませんか?

2013年9月15日日曜日

カリキュラム開発

前回の最大の問いは、「なぜ、カリキュラム開発能力を教師につけてあげないのですか?」でした。

 答えは単純です。
  文科省にも、大学にも、そして教育委員会にも、それをできる人がいないからです。したがって、いくら待っていても提供されない構造になっています。

 誰も情報を提供(研修)はしてくれませんが、カリキュラムは学校の専権事項ですから、学校がやるしかありません。
 教科書や指導書をなぞるだけでは、残念ながら子どもたちが学べるカリキュラムになりませんから。ここでいう、カリキュラムとは「何をどう教えるか」(=子どもたちからすれば「何をどう学ぶか」)です。

そうなると、カリキュラム開発を、校内研究・研修の柱にすえる必要があります。それは、従来の授業や単元開発をはるかに超えたものです。もちろん、教材が先にありき★の「指導案づくり」とはまったく次元が違います。(願わくは、センター研修も移行してほしいですが。)
 教師は、教材や授業や単元レベルで子どもたちに責任を負っているのではなく、年間を通した子どもたちの学びに対して責任を持っています。(学習指導要領とは、そういうものです。教科書をカバーしたからといって、学習指導要領の内容を押さえたことにはなりません!!)

 基本的に、教師が本当にいいと思ったもの以外は扱わないことが原則です。教師が「お付き合い」で教科書の内容を扱っていると、子どもたちはそれを見抜いてしまいますから、本気で学べるはずがありません。(私たちが研修を受ける時を思い出してください。講師がいいと思って紹介しているものの多くも、私たちに残ったり、ましてや使いこなせたりするようなものはほんのわずかです!)それほど、「何を、どう」扱うかは大切です。それを年間で考えないといけないのですから、容易ではありませんが、本来、それをしない限りは、みんなで「お付き合い」の授業を続けることを意味します。

 「カリキュラム開発」は、今からでも決して遅くありません。彼これ50年はやられていないのですから、今から取り組んでも前進あるのみです。

 教師は、教えたいことが教えられるようになり(もちろん、学習指導要領を中心にしながら、それなりに教科書で使いたいところは使いますが)、子どもたちは、今よりもはるかによく学べるようになります。なんと言っても、教師の意気込みが違いますから。管理職も生き生きしている教師や子どもたちを見られる方がうれしいです。保護者も、今よりは学ぶことが好きになり、かつ学力がつく子どもを見られてうれしいでしょう。学力さえつけば、教育委員会だって文句は言わないでしょう。
 いいこと尽くめです。


   <メルマガからの続き>


★ 学習指導要領には、教材のことは一切触れられていません。
  教科書編纂・執筆者たちが、ある意味では「勝手に」選んでいるだけです。(よく、言えば「良かれと思って」選んだものですが、子どもたちのことは知りませんから、それが適した教材かというと、かなり疑わしいわけです。子どものことを考えるよりも、自分の好みの方がはるかにウェートが大きいのではないでしょうか? 個々の子どもたちが受け入れられる幅は極めて広いにもかかわらず!!

  そんなものに「お付き合い」する必然性は、どこにもありません。
  目の前にいる子どもたちの方がはるかに大事ですから。教科書よりも。
  そして、それができるのは教師であり、教科書ではありません。

  どうも、この優先順位が狂っているので、子どもたちの学びの質も量も極めて低いレベルが続いています。

2013年9月8日日曜日

カリキュラム

カリキュラム開発の大切さが、8月25日のPLC便りで強調されました

 「カリキュラム」は、基本的に学校レベルの専権事項なのでは?
 教育委員会の承諾を得て、という前提つきですが。
 (でも、基本的に、良し悪しの判断ができる人は、そうたくさんいるとは思いませんから、出したものは通ると思っていいと思います。)

 大切なのは、教科書(ないし指導書)どおりのを提出するのか、それとも自分たちが考えたカリキュラムを提出するのかの違いです。

 私が教育に関わり始めた80年代の半ばに、学習指導要領を書いている教科調査官たち数人と話し合ったことがあります。その一人(世界史担当)が、たとえば「フランス革命は、いつ始まって、いつ終わったのか」をテーマにして1年間授業をしてくれてもいっこうに構わないのです、と言っていたのをよく覚えています。(もちろん、学習指導要領の内容はカバーされるという、前提での話しですが。)そして、教科書は使わなくてもいいのです、とも。(学習指導要領さえおさえられれば。)

 しかし、その後で、こうも付け加えました。
 「大いにやってくれていいのですが、致命的なのは、養成過程でも、現職研修でも、それができるカリキュラム開発能力を教員につけない、ということです」

 私に言わせると、当時から、今も変わりませんが、それがわかっているなら、「なぜ、カリキュラム開発能力をつけてあげないのですか?」です。

 その方が、子どもたちはよく学べるのに。
 教科書をカバーする授業で、よく学べる子は何割ぐらいいると思いますか?

★ 教科書があること(教科書をカバーする授業をし続けること)のプラス面とマイナス面を考えてみてください。そして、ぜひ下のコメント欄に書くか、pro.workshop@gmail.comにお送りください。

 目的は、教科書をカバーすることでしょうか? それとも、子どもたちが学べることでしょうか?

 目の前にいる子どもたちのことを知らないどこの誰かが書いたのかわからないもので、目の前の子どもたちはよく学べるでしょうか?

 秋学期もはじまったのを期に、ぜひ、もう一度「カリキュラム」とは何だったのかを考えてみてください。

2013年9月1日日曜日

教育の方向性


「自己責任」という言葉は、しばらく前の小泉政権時代から目立つようになった「新自由主義」によって、さまざまな局面で使用されるようになってきた。

 今、大学生の就職難が社会問題化しているが、これなどもしばらく前は、「ニート」とか「引きこもり」とか言われて、若者がすべて悪いような言われ方がなされていた。
 

 しかし、最近の「ブラック企業」に関するニュースを見ていると、どうも若者がふがいないというよりも、若年労働者を過労死寸前まで働かせる、一部の経営者のあり方にこそ問題があることがわかってきたように思う。

 新興のIT企業や飲食業においては、月の残業時間が200時間という信じられないレベルまで働かせているところがある。これではまともな生活ができるはずがない。
 

 また、年間数百名を大量に採用しているIT企業では、使える人間だけを選別するために、わざとパワハラを行い、精神的なダメージを与えて、自分から退職していくように仕向けていると言う。しかも、年々そのやり方が巧妙になって、「カウンセリング」といういかにも本人のためになるかのような仕組みを利用して、精神的に追い詰めていくそうである。しかも、今の仕事のことだけでなく、その人の生い立ちから、成長過程の話まで持ち出して、「だからお前はだめなんだ」という言い方をしていく。ひどい話である。しかし、こういうやり方で追い詰められていくと、今の若者は「自分が一番悪い」と自己反省して、自分からやめていく人が大半だそうである。
 

 今をときめく、アパレル関係のグローバル企業も実はブラック企業の一つと言われている。この会社には、名だたる大学から優秀な若者が入社してくるそうだが、かなりの割合で辞めていくそうである。(入社して3年以内に50%が離職)
 新入社員は、各店舗に配属されて、そこでまず会社のマニュアルを書き写すことを命じられるそうだ。今どき、手書きでなくてもコピーを取れば済む話なのだが、わざわざ手間のかかることをさせるのは、それで本人の会社への忠誠心を見るのだそうである。会社の言うことを聞く人間かどうかをそこでまず判別するわけである。要は会社の言うことを聞く人間だけが生き残れるということらしい。これがグローバル企業を標榜する会社である。「グローバル」とは何ぞやという話である。
 

 ここで、考えさせられるのは、わが国の学習指導要領である。最近の話題は、道徳教育の教科化、英語指導へのテコ入れ等々と、要するに、これから世界を相手に戦う忠実な会社人間を育成するのが、この国の教育の方向性らしい。

 そう言えば、数日前に、今年度の「全国学力・学習状況調査」の結果が報道されていた。

 各都道府県では、相も変わらず、全国平均より上だとか、下だとか。こんなもので学力向上のアカウンタビリティを果たしているつもりなのだろうか。
 

 こんなことを考えているときに、「理解する」ということについて考える機会があった。

やはり教育とは奥深いものだし、こんなやり方があるのかと初めて気づかされることがたくさんあった。やはり教育に関する「いい情報」がこの国には絶対的に不足している。

かつて、吉田さんが欧米との比は、1001と言ったことは現在でもそのまま続いているし、さらに格差は広がっているようにも思える。

微々たる力ではあるが、人のつながりを活かして、前に進むしかない。