2013年10月27日日曜日

隠れたカリキュラムで思い出すこと



隠れたカリキュラムが前回は話題になりました。

この言葉を聞くと、思い出すことがあります。

 

学校は表のカリキュラムだけでなく、隠れたカリキュラムが子どもたちの思考様式や行動様式に影響を与えていることは前回の指摘の通りです。もう20年近く前になりますが、私がある中学校で初めて学年主任を任されたときのことです。私は学年主任になったら、どうしてもやりたいことがありました。それは、今では当たり前のようにどの学校でも行われている「朝の読書」です。20年前は当然実践している学校はほとんどありませんでした。

 

 主任になって早速校長にその話をすると、「他の学年主任がどう考えるのかそれをまず確かめろ」と言われました。そこで、他の学年の主任さんに「「朝の読書」をやりたいのですが、おたくの学年も一緒にやりませんか」と持ち掛けました。ところが、他の学年主任は剣もほろろに、「そんなことをやっている学校は市内にはありませんよ」「あなたは新しい物好きな人なんだね」と言われ、相手にもされませんでした。そこで、校長にそのことを話すと、「それじゃ、あなたの学年だけ試しにやってみなさい」と言われました。学年ごとに朝の活動が異なるというのも変な話ですが、「まあやれないよりはまだまし」と考えて自分の担当学年だけでスタートさせました。

 

 これは一つの例ですが、生徒指導などに関しても、学年ごとに違いがあり、そんなことが影響して、決していい学校の雰囲気ではありませんでした。当然、問題行動も多発します。その学校は一学年が10クラスある大規模校でしたので、学年が一つの学校だったのだと後になって思いました。同時に、学校は表のカリキュラムだけでなくて、「隠れたカリキュラム」が子どもたちに大きな影響を与えていることを痛感しました。また、学校全体という視野を持てなかった自分の力量不足も反省の材料となりました。

 

朝の読書にも関係することですが、学校全体で「本を読もう」という雰囲気を作り上げていくのも、管理職の関心の度合いが大きく影響すると思います。要するに、教師が考えていること、日常的に行っていることが子どもたちのものの見方・考え方にも大きな影響を与えているということです。もっとも、見方を変えれば、校長がこうしたいという願いを持って、部下職員にそれを浸透させていけば、校長が理想とする学校ができる道筋がだれにも開かれているということです。そんな理想の学校を目指して、目の前の現実と向き合いたいものです。

2013年10月20日日曜日

隠れたカリキュラム

 カリキュラム続きで・・・

 私たちは往々にして「見えるカリキュラム」しか見ませんが、子どもたちが学校で学んでいることの多くは見えにく「隠れたカリキュラム」の方です。

 「見えるカリキュラム」の代表は、なんと言っても教科書です。
 よく見えるので、それをカバーしていれば、教師は(管理職も、教育委員会や文科省も、保護者も、そして子どもたちも)安心できます。その大半が、忘れ去られる運命にあることは誰もがうっすら気づいてはいるのですが・・・「自分は少なくともカバーした(教えた)。学べなかったのは、子どもたちの責任だ」と添加することで納得もできます。

 しかし、カリキュラムとはやっかいなもので、「子どもたちが学校にいる間に、体験したり、学んだりすることの総体」です。その中には、多分に学校側が意図しないものも含まれてしまいます。(従って、意図したものが「見えるカリキュラム」で、意図しないものが「隠れたカリキュラム」とも言えます。)

 「隠れたカリキュラム」の方は見えない、ないし見えにくい分、注意しないとその存在すら気づけません。しかし、子どもたちに与える影響は、おそらく「見えるカリキュラム」の比ではありません。

 隠れたカリキュラムの中には、
     ある教科への苦手意識の芽生え
     いじめの存在
     習熟度別指導
     一斉授業や個別学習中心で、グループ学習が行われない
     校長や教師たちは「思いやり」や協力の大切さは強調するのに、実態としてそれらをモデルとして示せていないことを子どもたちが見抜いている
などなど、あらゆるところに存在し、しかも、それらの多くは「見えるカリキュラム」とコインの裏表の関係にあるというか、問題の原因が「見えるカリキュラム」にある場合がほとんどです。要するには、現行のカリキュラムが、小学校であれ、中学校であれ、高校であれ、大学であれ、単純すぎるし、退屈だし、おもしろくないし、意味も自分との関連も感じられないという問題です。そのようなものを一日中そして毎日押しつけられて、教師の思うように振舞っていればいいと言われても、それは無理だし、反発する生徒がいてもおかしくない状況をつくり出していると言ってもいいわけです。

 さらには、そういう状況を感知して、対応できない教師集団ないし教育制度という問題にも至ります。

 「見えないカリキュラム」に興味のもて方は、いい学校のつくり方について書いた『いい学校の選び方』(中公新書)の第Ⅲ部、とくに147~155ページを参照ください。いまでは、「見えないカリキュラム」ないし「潜在的カリキュラム」で検索すると、相当数の情報が得られます。

2013年10月13日日曜日

カリキュラムも教科書も手段

カリキュラムも、教科書も、学校経営も、教員研修も、あくまでも手段です。

では、目的は何かというと、子どもたちが、教師が、保護者が、地域が、社会が、ハッピーになり、学び続けること。

その手段であるものが、目的化してしまうことは本末転倒。
そういえば、そもそも「子どもたちのため」にある学校が、「大人のため(教師のため)」だったり、「文科省や教育委員会のため」に、いつの間にか摩り替わっている現実もなきにしもあらず、です。

授業の多くも、前にも書いたように、子どもたちのために行われているというよりは、教師のため(主役が誰になっているのか見れば、明らかです!)だったり、教科書(=教育委員会や文科省や教科書会社)だったりしています。

「自分たちのため」と思って授業に出ている子どもはいったいどのくらいいるでしょうか? 

残念ながら、小学校から大学まで、「自分のため」と思えた経験を、私はもっていませんでした。あくまでも、「義務感」でそこにいたに過ぎません。従って、残っているものというか、身についているものも、思いつかないぐらいです。

この「ボタンの掛け違い」、なんとかできないものでしょうか?
「主従の関係の逆転」というか?

そもそも教えるものは何か? 教えられるものなのか? 
それをテストなどで測っていい(測れる)ものなのか? 
と、考えざるを得ないような気がしています・・・・

教える側からではなく、「ハッピーになり、学び続けるため」の側から考えることで。
それが、本来の教師、授業、学校の役割ではないでしょうか?


2013年10月6日日曜日

情報公開



学びの共同体においても、情報公開・情報共有が大切なことはもちろんです。

 いじめや体罰の問題でも、学校や教育委員会の情報隠しがたびたび問題になります。隠ぺい体質とよく言われていますが、よく考えると学校や教委だけの問題でもなさそうです。この国の近代・現代の歴史を振り返ると、官の「隠ぺい体質」は様々な場面で見ることができます。
 

 先週から「県民健康管理調査の闇」(日野行介・岩波新書2013)を読んでいるのですが、そこでもまた嫌になるくらいそんな場面が描かれています。この本は、福島原発事故の後の、福島県民に対する健康被害調査(特に、放射線からの影響)をある新聞社の記者が調査報道したものです。この健康調査検討委員会は20115月から開催されています。
 

私もこの委員会の活動には最初から注目していました。今振り返ると、その委員会に関する報道の内容はいつも「健康被害はない」「放射線の影響はチェルノブイリに比較して少ない」というものでしたが、個人的にはどうも信用できないという思いで受け止めていました。
 

今回この本を読むと、検討委員会の直前には必ず「秘密会」が開かれ、発言内容の調整が行われていた様子がわかります。県民の健康を本当に心配しているのならば、データをすべて公開するのが筋だと思うのですが、どうも「被害をなるべく過少に見せたい」「そうしないと観光や経済にいつまでも負の影響が残って、県の発展(復興)のためにはよくないことなのだ」という経済の論理が優先しています。県民の健康なくして、復興や経済の発展があり得るのでしょうか。
 
そう言えば、今の福島県知事は事故前には原発推進派だったのに、事故後は、あたかも自分も被害者のような顔をしています。ですから、この「県民健康管理調査の闇」という本の82ページにも「知事の希薄な存在感」という見出しで、検討委員会をめぐる問題で、すべて副知事任せにして、一言も発しないで会見から退席した様子が描かれています。

この筆者は「トップが何をどう考えているのか、ほとんど発信しない状態では、県民も、そして職員もどう考えたらよいかわからない」と綴っていますが、その通りです。まさに学校で言えば、校長が何を考えているのかわからない学校が迷走するのと同じ状況です。

 

こんなことを書いているうちに、あることを思い出しました。

それは、原爆のことです。「原爆と原発」は基本原理に関しては核分裂ということで同じです。原発は制御棒を利用して、核分裂をゆっくりと起しているだけです。
 

そのもう一方の原爆ですが、1945年広島と長崎に落とされました。アメリカ軍にも、そのあまりの爆発のすごさに心が痛むところがあったとみえて、事前に新型爆弾投下の警告ビラが何十万単位で空から日本国内にばらまかれていたそうです。それを当時の軍部は敵の謀略であるとしてすべて回収させていました。また、海外からの短波放送で、ポツダム宣言のことや原子爆弾開発の情報が流されており、当然軍部でもそれらの放送は傍受していたので、軍の一部の人間はすべて知っていたようです。しかし、全く一般の国民には知らされていませんでした。隠ぺい体質の最たるものです。
 

この国は、1945年から全く進化していないのでしょうか。戦争後、経済復興して、瞬く間に先進国になりました。しかし、様々な組織に巣食う「隠ぺい体質」からは自由になれていないようです。これは教育によって改善の見込みがあるものなのか、あるいは改善への別な道筋があるのかわかりませんが、これからも追究していきたい問題の一つです。