2014年12月28日日曜日

1年のふりかえり



自分は今年1年ちゃんと成長し続けていたかな?
自分が属している組織は成長していたかな?

後者は、自分以外の要素が大きいので、なかなか難しいかもしれません。★
実際は成長していないのに、いくらでも装うこともできそうですし。

しかし、前者に関しては、かなり明快に答えは出そうです。
自分が成長しているかどうかを自分に聞いてみれば、YesNoかは明らかですから。

あなたは大丈夫ですか?

いったい成長し続けるために何をしていますか?

本を読む。
人と話す。(それも、できるだけ学校以外の人と。)
情報として得た中でいいと判断したものは、ドンドン実践してみる。
それを振り返る。いい点は祝う(歓ぶ)
改善・修正して、さらに実践し続ける。
情報として発信する。(共有する。いい意味で、自慢する)

これは、実践に磨きをかける方法として紹介した図に似てますね。
(ということは、私が成長していないということ?? ぜひ私を助けると思って、他にされていることがある方は、pro.workshop@gmail.com宛で教えてください。)

これらをしっかりやり続けることが、自分が元気に成長し続けることはもちろん、組織が成長し続ける前提だと思います。


★ 組織全部を対象にするよりも、一人、二人の仲間からスタートすることこそが大切ではないでしょうか? それが続くコツでもありますし。 それで、『「学び」で組織は成長する』(光文社新書)を書きました。

2014年12月21日日曜日

教員研修を役立つものにする鍵は



子どもたちの学び方が一人ひとり違うように、教師の学び方も多様です。(そうだとすると、一律の講義を行ったところで、効果は期待できません!)
その前提に立った教員研修のポイントは、

     継続的な学びが大切 ~ 特に、教師に新しい手法を学んで、実践してもらいたいのであれば、長い時間が必要。ある調査では、50時間は最低でも必要という結果も出ているぐらい。
     実践に移す時のサポートが大切 ~ 教え方を変えることを意味するので、サポートが欠かせない。それもかなり手厚い。(日本の研修で、このことは考えられているでしょうか?)
     実践することの価値に納得してもらうためには、読んだり、話し合ったり、ロールプレイをしたり、見本を見たり(授業を観察したり)といった教師の主体的な学びが大切。受身である限りは、役に立たないことが約束されている!?

以上の3つのポイントを踏まえて、具体的に学校や教育委員会主催の教員研修をする際のカギは:

1)取り組んでもらう実践(学び)を一つか二つに絞る。あれもこれもでは、新しいことに取り組むことを不可能にするだけ。
2)多いとは言えない学校や教育委員会の資源をそれら一つか二つの実践の実現に集中する。サポート/フォローアップのない研修は、教師を混乱に陥れ無力感を味合わせるだけ。
3)紹介することではなく、サポート体制性こそを充実させる ~ 具体的には、コーチング、校長による観察・支援、継続的な学年ないし教科ミーティング、継続的な評価システムなど。しかし、何よりも強力なのは、教師同士が教え合うこと。子どもたちも、それをモデルにしてよりよく学べる。
4)フィードバックの仕組みを作って、実践をモニターできるようにする。子どもたちの学びに好影響を与えないものに時間をかけても無駄。そのためには評価・モニターの仕方も身につけ、それを絶えず改善に活かす方法を身につける必要もある。
5)変化には時間がかかることをわきまえる ~ 1~2回の「研修」では当然のこと、1年ぐらいでも自分のものにしてもらえると思わない! 継続的なサポートこそが鍵。

教師も、教育委員会も、保護者も、子どもたちの学びの(質と量の)改善を望んでいます。これまでしてきたような研修を続けても、それが実現しないことは、長年の経験がすでに証明済みです。ぜひ、上の前提と鍵★を踏まえて、研修(学校内での教師の学び)を役立つ形に転換していきましょう!!


★ かなりの部分、このブログで繰り返し紹介している「学びの原則」とオーバーラップすると思いませんか? まずは、教師がそれを体現した形の学びを自ら体験していないと、子どもたちに提供することは不可能です。

2014年12月14日日曜日

カリキュラムづくり


アメリカは一時よりも経済が回復しているようです。その一因となっているのが、シェールオイル、シェールガスの産出です。この掘削に利用しているのが、「水圧破砕」という工法で、水と砂、化学物質を高圧で地下のシェール(頁岩)層に注入して、その岩石の亀裂からオイルやガスを取り出すというやり方です。これによって、以前からの油田に加え、アメリカ全体の産油量が増加し、それによって石油精製を始めとして、化学産業が活気を呈してきているようです。

 

このような最近の話題を早速、学校の授業に取り入れているアメリカの教師たちがいます。

LDC(Literacy Design Collaborative )という民間団体があり、そこに所属する人たちが高校生向けの授業プランを作成し、Web上でも公開しています。

    このプランの面白いところは、シェールオイルやガスの採掘に関して、賛否両論があるにもかかわらず、それらを含めて、生徒たちに議論させようというところです。もちろん、推進派と反対派の両方の考え方、科学的な根拠などを提示しながら、ち密に計算したワークシートを利用して、生徒たちの主体的な活動を促すような活動計画です。

    その一部には、「映画の台本を作る」という学習活動があります。そこでは、生徒のためにサンプルが提示されています。その部分を以下に紹介します。

    スティーブ・ツリーマン(環境保護グループの科学者)とトム•ドリラー(ガス会社の科学者)は、ホワイトハウスのバラ園でオバマ大統領と会談している。どちらの科学者も彼らの前にたくさんの論文を広げている。ツリーマン博士の情熱的で要点を押さえた話をオバマ大統領が熱心に聞いている。

 
   ツリーマン博士: それが私たちの水に害を与えるので、安全ではありません。水圧破砕の井戸の近くから取水したサンプルは、水圧破砕の井戸のない地域よりもその中に17倍以上のメタンを含んでいました。
   
   ドリラー博士: しかし、スティーブ、水圧破砕がその地域で始まる前は、このメタンが存在しなかったことや細菌の正常な代謝機能の結果自然にできるものではないからです。
   
  ツリーマン博士: (大統領に向かって体を傾けながら)大統領、深いシェールガスからのメタンの同位体と、細菌によるメタンの同位体を比較する試験によって、水中のメタンが細菌からのものではなく、もっと深いところからのものであったことが証明されました。・・・

(Literacy Design Collaborative :Hydrofracking__Pam_Meyer20140102-2-zl3jhzより)
  
   賛否両論がある科学的な話題を取り上げるのは、容易ではありませんが、生徒にとってはとてもリアルタイムで面白いテーマだと思います。

 STS(Science Technology Society)教育がしばらく前に話題になりましたが、そのときの先駆者たちもアメリカの教師でした。サイエンスはまさに現代社会と密接に関連しており、そのリアルな話題を可能な限り授業の中で、取り上げていくのは「教室の中だけで完結する」これまでの学びを広げ、面白くしていくしかけの一つだと思います。ただ、それには十分に考えられた授業プラン、カリキュラムが必要です。年間に一つでも、そのようなオリジナルのプランを作って、子どもたちと追究してみてはどうでしょうか。

そのような教師が増えて、交流の輪が広がっていくことが教育改革の一番の近道のような気がします。

 

2014年12月7日日曜日

教科横断型の授業


  先月10日に「世界教育戦争」(アマンダ・リプリー/ 北 和丈訳・中央公論新社)という本が発売されました。原題は「The Smartest Kids In The World」です。
   この本には、3名のアメリカ人高校生がそれぞれフィンランド、韓国、ポーランドに留学する話が紹介されています。

    113ページに次のような文章があります。エリックと言う高校生(高校はすでに卒業しているが、大学に入る前に海外留学をしたくて交換留学生になる)が韓国に留学するのです。

 
「面白いことに、エリックが韓国で本当に楽しいと思えた唯一の授業が数学だった。

~(中略)~

  受けていた授業は、表向きには幾何学ということになっていた。幾何学を習って高校を卒業しているエリックには、理解できない内容はほとんどなかった。ところが、韓国の生徒たちが幾何学を学んでいる方法そのものは、エリック自身が経験してきたのとはまったく異質のものだったのである。

 先生の話は、三角法や微積分などいろいろな分野をまたぎつつ、あたかも幾何学が数学という大きな宇宙に浮かぶ太陽系の一つにすぎないと言わんばかりの筋立てで進んでいった。異なる分野を組み合わせることで現実世界の問題を解決することができる数学は、もはやきれいに分類された科目としての数学とは別物だ。」

 
   韓国の数学教師がすべてこのような教科横断型というか、学際的なアプローチのしかたで数学を教えているとは思いませんが、このような実践をしている教師がいることは事実のようです。エリックもアメリカで受けた教育の中で、このような体験をしたことがなかったようですので、アメリカでも少なからず教科書をベースにした知識注入型の授業があることも事実のようです。

 
    以前からわが国でも教科横断とか、教科統合の話はありますが、なかなか現実には前に進みません。「総合的な学習の時間」は、唯一それが公式にできる場であったわけですが、どうもスキル獲得とか、別な方向に逸れていきました。

「教科縦割り主義」は教える側の都合が優先されてきたとも言えるわけで、子どもたちの側からすれば、つながりの見える形で学んだほうが、より面白く学べるわけです。

『「読む力」はこうしてつける』(吉田新一郎・新評論2010)は、こうした教科縦割り主義を打破するヒントがたくさん紹介されている本です。この本を手掛かりに、多くの子どもたちが意欲的に学べる実践が各地で展開されることを期待したいものです。

2014年11月30日日曜日

読む力をつける


『「読む力」はこうしてつける』(吉田新一郎・新評論2010)は、子どもたちに読む力・書く力をつけさせるには格好の本です。私も大学の授業で利用しています。

私の勤めている大学では、1年から4年まで週に1コマ「セミナー」という授業があります。

要は小中高でいう「学級活動」+「読み書きのリテラシー」の時間というとわかりやすいと思います。その「読み書きのリテラシー」の部分で、この本を利用しているのです。

 

この本の中に「第7章・質問する」という項目があります。

98ページには、「質問力の向上によってもたらされる効果」として、以下のように整理されています。

 

・質問することの価値を知っていて、読む前、読んでいる間、読んだあとに質問ができる。

・意味をはっきりさせるため、書いてあることを予想するため、書き手の意図や書き方を知るため、書いてあることを疑って見るためなど、様々な目的の質問ができる。

・質問をすることで理解が広がる(深まる)ことが分かる。したがって、記憶にも残りやすくなる。

・質問が、文章(ないし作者)とのやり取りを可能にする。

 (以下 略)

 

私の担当しているクラスの学生は小学校教諭や特別支援学校教諭を目指している者がほとんどですので、この「質問する」ことがいかに大切かを繰り返し学ばせたいと考えています。

105ページに「レッスン⑦詩を使った質問づくりの練習」がありますが、これを先日実施しました。詩は、この本でも紹介されている「世界は一冊の本」(長田弘・みすず書房2010)を使いました。

 

まず、朗読してから、学生たちに思いついた質問をワークシートに書かせます。

こんな質問が出てきました。

「権威をもたない尊厳とはどういうこと?」

「マヤの雨の神の閉じた二つの眼とは?」

「トンブクトゥってどこにあるの?」・・・・

 

「これはどんな意味なのか」、「もしかしたら、こんなことを作者は言いたいのでは」

など、いろいろと意見が出てきます。このあたりのやり取りが面白いですね。

この詩は、読み手に様々なことを考えさせてくれる、とても面白い詩だと思います。

 

この「読む力・・・」には、「読む力をつける」効果のある方法がたくさん紹介されています。特に、小学校の先生方に読んでいただきたい本です。

2014年11月23日日曜日

教育の情報化


先日ある小学校の公開研究会に参加してきました。

研究内容はICT教育、いわゆる情報教育です。


ICT教育は世界の潮流であることは間違いありません。ただ、これまでのアナログの部分で大切にされてきたものまで捨ててはいけないと思います。

たしかに、タブレットパソコンを子どもたちに持たせて学習させることで、たとえば子ども同士のコミュニケーションが活発に図られるようになったとか、お互いの考えを出し合い、それを練りあって、より高いレベルの思考にたどり着くことができたとか、成果はいろいろあります。


でも、それらの多くはアナログ時代にもできたことなのです。時間の短縮とか、実践後の記録保存などの点ではデジタルが優れていることはもちろんです。ただ、そのようなことよりも、たとえば、子どもたちが探究する「課題の質」「問いの質」はどうなのかということが優先されるべきでは?と考えてしまいます。

 

「デジタル社会の学びのかたち」(A・コリンズ&R・ハルバーソン著・稲垣 忠編訳、北大路書房)の冒頭の部分に「日本語版への序」という文章があるのですが、次のような内容です。

 

「新しいテクノロジは、これまでの学校のあり方に疑問を投げかけています。何世紀にもわたり、教育とは、専門家や知識、スキルに対するアクセスが制限されていること、つまり情報の欠如によって定義されてきました。」(同書・日本語版への序ⅲ)

 

まさにその通りです。これまでは学習者は勝手に知識にアクセスできず、必ず教師という先導者がいて初めて知識にふれることができたわけです。ですから、教師の教え方も当然「教授型」となるわけです。しかし、インターネットを始めとして、コンピュータの進化によって、様々な知識のデジタルアーカイブにだれもがアクセスできるようになった今、教師の手を経ずしてもだれにとっても手の届く存在になったわけです。

でも、学校はなかなか変われません。

 

「生徒たちは、自分自身の関心より、学校の教育内容は価値があるものだと信じることが求められています。」(同書・日本語版への序ⅳより)


「何のために学ぶのか」が納得できないまま、受験のために必要だからというような理由で多くの生徒は授業に向き合っています。

 

「一方、新たなテクノロジは、子どもたち自身の手で学習環境をつくり出すことを促します。」また、こうも述べています。


「一方で新しいメディア・テクノロジは、学習者一人ひとりのニーズ、目標、スタイルを支援します。」(同書・日本語版への序ⅳ・ⅴより)

 

 要するに、これまで教師主導の教授型授業の時代は、すべて教師のおぜん立てによる授業で済んだのかも知れませんが、コンピュータというテクノロジが入ってきたことにより、いやでも授業スタイルは学習者主体に変わらざるを得ないわけです。ただ、一つ危惧することがあります。

 もし、この新しいテクノロジを基礎・基本の定着と称して、ドリル型の授業で知識を詰め込むために使うのだとすると、何も変わらないことになります。

 このあたりのことを同書は次のように分析します。

 

「多くの教育現場で説明責任のプレッシャーの増すなかで、スキルの練習と、必要とされる学習内容をカバーすることに、労力の大半が費やされています。伝統的なスキルと内容理解を測定することばかりが強調されているところで、イノべーティブな授業実践が広がることはないでしょう。」

 

 この分析もその通りでしょう。かつて、アメリカのラリー・キューバンという教育社会学者が1990年代のアメリカでのコンピュータ教育の実態調査を行って、結局はコンピュータという技術革新が教室の学びを変えることはなかったと結論付けています。

 

 今のICT教育がこの轍を踏まないようにするには、このブログで取り上げている「学び」を実現することです。方向性が見えたら、あとは実践あるのみです。

 

2014年11月16日日曜日

教員研修=授業 !?



Never Underestimate Your Teachers(教師を見くびっちゃいけない)』というタイトルの本をいま読んでいます。
その中では、教師を4段階に分けています。
(ちなみに、日本の教員研修で横行している「学校一丸となって」と年次研修に代表される「ライフステージ」というのは実態に裏づけられたものではなく、単なる習慣と役所得意の年功序列=管理主義に則っているだけにすぎません。単純に、やらされる側を考えて行うよりも、やらせる側の「都合」にすぎません。★しかし実態は、この本にも書いてありますが、30年たっても新米レベルの教師もいますし、逆に数年でベテランのような実践ができる教師もいます。)

4段階よりも細かく分けられるかもしれませんが、①身につけるスキルと②よくなり続けたいという意思・意欲の2つを軸に、4分割できるということで、そうしているようです。

このことから明らかなのは、同じ学校や年代の教師を集めてみんな同じことをしても、抱えている課題やニーズは違うので、意味はありません。同じ講義を聞いても効果的ではありませんし、みんなで指導案づくりをしたり、授業の見合いっこや研究協議も時間の無駄です。聞けるもの/見えるもの/学べるものが違いますから。

何が大切かというと、教師それぞれの課題やニーズや興味・関心に見合った「differentiated, deliberate, and developmentalな(個別化した、意図的で、成長段階に即した)」練習とサポートです。
このような教員研修を体験したことのある教師は、いったいどのくらいいるでしょうか?それが決定的に少ないので、子どもたちを対象に「個別化した、意図的で、成長段階に即した」授業を行なえる教師も極めて少ない状態が続いています。教員研修と授業は、まさに「入れ子」状態にあります。★
最初から授業を変えることは容易ではありませんから、教員研修のやられ方を転換する必要があります。学校や教育委員会/教育センターで、研修のやり方を改善したい方はpro.workshop@gmail.comへぜひ連絡ください。

ちなみに、練習して身につける際の参考文献として、『才能を伸ばすシンプルな本』ダニエル・コイル著が紹介されていました。要するには、もって生まれた資質とは関係なく、一生懸命に練習と仕事をすれば、誰でも才能は磨ける、というのです。もし読まれた方は、ぜひ感想をお聞かせください。


★ このご都合主義と「入れ子」状態は、教育界で結構多く見られます。たとえば、学年や教科や教科書等で当たり前のように教える授業は、教える側(というよりも、管理する側)の都合でしかなく、教えられる側(というよりは、学ぶ側)のことは考えていませんから、よく学べることを期待するのは難しいといわざるを得ません。さらに言えば、その教科や教えられること自体が嫌いにならない方がおかしなぐらいです。
皆さんも、同じような感想を「研修」にもっていませんか?

2014年11月9日日曜日

いい先生がもっている11の習慣


 教えることに情熱的に取り組んでいる先生は、誰にとってもありがたい存在です。他の先生たちのインスピレーションとなる先生ですし、多くの子どもたちが教えてほしいと思う先生ですから。あなたは、そのような先生ですか? あなたの周りにそのような先生はいますか? 
そのような先生はどのような習慣をもっているのでしょうか?

1.教えることを楽しんでいる ~ あなたが教えることを楽しめていなかったら、子どもたちは学ぶことを楽しむことは困難!

2.違いを生み出している ~ 安心・安全と思えるだけでなく、特別と思えるクラス/授業を提供する。

3.プラスのエネルギーで充満させている ~ 笑顔も大切!

4.個人レベルで子どもたちをよく知っている ~ 知ることで、接点が持てる/広がる/よりよく教えられる。保護者をよく知ることも大切!

5.自分のベストを出して教えている ~ 子どもたちにそれを言うなら、自分がモデルを示していないと。

6.常に事前に計画している ~ 後手後手に回るとロスが多くなる。常に先取りして余裕を持って行動する。ひらめいたアイディアをメモし、どんどん計画に反映して実践していく。

7.オープン・マインドでいる ~ 誰も完璧じゃない。改善する余地は常にある。自分が見えないものを他人は見てくれるので、聞く耳は大切。フィードバックを活かす工夫を。

8.ベストにあわせた基準を設定している ~ 達成したい到達点がイメージできるかどうかは意欲につながるし、サポートの仕方も左右する。

9.アイディアを探し続けている ~ すべて自分でつくり出す必要はない。世界には似たような課題や目的をもって動いている人がいる!! あらゆるところから情報を得る努力を怠らない。

10.変化を受け入れている/つくり出ている ~ 計画通りにはいかないもの。柔軟に対応することが大切。特に教えるときは。子どもと接する時は。新しい校長や同僚と接する時は。

11.常に振り返っている ~ いい教師は、自分のしたこと(特に、授業)を振り返り、何はよかったか、何はよくなかったか(失敗ではなく、成長の過程!)を明らかにして、改善点を常に修正し続ける。


そういえば、いい学校のつくり方を書いた『いい学校の選び方』(中公新書、2004年)でも「いい教師」の特徴を紹介していました(199~201ページ)。

 子どもたちがもっている「いい授業」のイメージ(127~131ページ)や、私の「いい学校」のイメージ(5~14ページ)や「いい学校」がもっている特徴(30~35ページ)も紹介していました。ぜひ、比較してみてください。本が入手困難な方は、資料=リストを請求してください(pro.workshop@gmail.com)。


2014年11月2日日曜日

『読書家の時間』の読み合いから



『読書家の時間』という本を生活科の観点からA先生とブッククラブをしました。以下は、最後の章を読んだ後に、A先生が書いてくれたことでした。

10章を読んで》
・「主体的に学ぶ」
私もさせてあげられていないです。
私はそもそも先生の講義のような授業や、センター試験やテストでの点数がそのまま成績という学校が嫌いです。
自分が嫌だったから教師を目指したはずなのに、「分からないから」「時間がないから」と、何かにつけ自分に理由をつけながら、自分が体験したような、古典的で、教科書を中心とした、一対多の授業をしていました。
この本に書いてある実践ができたら、それが変わるのかな、と、今ドキドキしています。

・「その子らしさ」
そこを見てあげたい、伸ばしたいという気持ちが出てきました。
私はこのインタビューを答える先生の子ども側の気持ちに近い気がしました。
というか、わたしが小、中、高と抱いてきた気持ちです。
先生達は何をみているんだと。
私は正直、真面目に授業に向き合ったことが、ありません。
クラス全体がそうだったからです。
今で言う荒れているクラスというのかもしれません。
授業は先生がずーっと話をしているイメージです。
 みんな授業は聞いていないのに、態度はほとんど同じなのに、出てきた成績は全く違います。
テストの点がいつもいい子は良い成績です。何も考えを深めたりもせず、単語を覚えたらAです。
変なの、という印象だけが残って、何か違う!と思って今に至ります。

この実践(=リーディング・ワークショップ)を通して、今までの疑問がすっと解決できるような気持ちが出てきました


まだ2年目の先生ですが、とても正直に書いてくれています。
自分自身の根元の部分を呼び起こしたり、転換させてくれる経験が求められていると思います。
それには、いい本や同僚との出会いがきっかけになると思いますが、本当に活かせるようになるためには、継続的な関わりやサポートが欠かせないとも。(残念ながら、センター研修や校内研究には、この点が弱いというか考慮されていないので、変わらない/変われない状態が続くんだと思います。) 


ちなみに、私が同じ本の第1~2章から読み取れたことは以下の内容でした。(数字は、ページ数)

どのように生活科に活かせるかという観点で読みました。

1 読む力  生活する力/生きる力
  読み手  生活者

2 生活科関連の絵本を使ったブッククラブはやれるでしょう。

4 生活者ノート

5 本に夢中になる代わりに、生活科では何に夢中になってほしいですか?

6~7 教師は生活者のモデルを示す!!

10 早速、夏の間に生活者図書コーナーをつくる!! 遊びの本も含めて

11 生活者としての教師の体験大公開   15も同じ

12 読書家の時間の20分間ひたすら読む代わりに、何をしますか?

13 生活者ノートを書く

14 生活者関連の本探し/情報探し = 図書館探検

16 長期休暇中に家でやれること?

17 生活者として実践していること/したいこと

18 2人で生活者を楽しもう!!

19 生活科用のアンケートは作れますか?

27 生活科タイム中のマナーづくり

34 図書コーナーづくり

46 保護者や地域の大人や学校のスタッフに生活者のモデルを話してもらう

と、かなりアイディアが出ましたが、やりたいの/やれそうなのありますか?
すでにやれていることも結構ありますか?
これらを子どもたち対象に試しながら、教師自身が体験していくことが、子どもたちがよく学べる授業をつくっていく前提のような気がします。生活科への応用の場合だけでなく、すべての教科で。

2014年10月26日日曜日

問いについて


このブログでもたびたび「問い」について取り上げています。

 かつて中学校で理科を教えていたときも、授業の中での「問い」作りに時間をかけていました。どのような問いになるかで、授業の良しあしが決まります。こちらも生徒も追究に熱が入るような授業ができれば、しめたものです。

    最近読んだ大澤真幸さんの「問いの読書術」(朝日新書2014)では大澤さんも読書をするときに問いをもつことの有用性を説いています。その中の第4章「格差社会時代の希望」で、苅谷剛彦「学力と階層」(朝日文庫)を取り上げているのですが、問いとして次のように提起しています。

「学ぶことへの意欲を規定している要因は何だろうか」

    この問いを前にして、最近の学ぼうとしない大学生を考えてしまいます。

 大学生の質の低下が指摘されて久しいわけですが、私の目の前にいる大学生にもこれに当てはまる人がいます。学ぶどころか、遊びやアルバイトに大半の時間を費やしてしまうわけです。そんな学生の「学ぶことへの意欲」をどう高めていくことができるのか、私自身は今この問いと向き合っています。

 
    迷うときは原理・原則に戻ることが一番です。

 そこで、迷った時はいつも「学びの原則」に戻ることにします。

 
 まず、「選択できること」。

 すべてあてがいぶちでは面白いはずがありません。「選択できる」場面を設定したり、課題を複数にしたり、いろいろとやり方はあります。

 また、「安心して学べる環境」。今どきの大学生と言っては失礼かもしれませんが、周りの人とうまくコミュニケーションを取れない学生も少なからずいます。そこで、アイスブレーキングを取り入れて互いの関係づくりをする必要もあります。

 それと「十分な時間を取ること」。人それぞれ学ぶスピードが違いますから、ゆっくり学ぶ人のためにも時間を確保してあげることです。

 (アイスブレーキングについては、「効果10倍の教える技術」吉田新一郎/ PHP新書の「資料編」を参考にしてください。なお、この本は現在入手困難ですが、アマゾンのKindle版は入手可能)

※また、「学びの原則」も上記の本の第2章に掲載されています。

 

2014年10月19日日曜日

歴史の授業


今回は歴史の授業の話題から入りたいと思います。

中学・高校の日本史の授業で学んだ、豊臣秀吉の「刀狩り」を多くの方は覚えておられることでしょう。


 中学校学習指導要領解説・社会科では、歴史的分野の「(4)近世の日本」で、次のような内容の取扱いが示されています。

 

ア 「ヨーロッパ人来航の背景」については,新航路の開拓を中心に取り扱い,宗教改革についても触れること。「織田・豊臣による統一事業」については,検地・刀狩などの政策を取り扱うようにすること。

 

このように示されていることから、当然教科書にも「刀狩り」が取り上げられています。

したがって、秀吉の刀狩りによって民衆は武装解除されたということが従来「常識」となっていたが、近年の研究によりどうもそれが違うという話になりつつあります。


つまり、刀狩り以降も刀、脇差を武士以外の人々も所有していたようなのです。

いずれ、この「刀狩り」に関する記述も変更を迫られることになるかもしれません。

 

「教科書に書いてあることはすべて正しい」と思い込んできた日本人からすると、「なんだ、そうだったのか」となりそうです。このブログで取り上げてきた「教科書をカバーするだけの授業ではダメだ」にも通じる話かもしれません。

 

むしろ、これからは「「刀狩り」によって民衆の武器はすべて取り上げられたのか」をテーマにして調べるような授業のほうがはるかに面白い授業だと言えるでしょう。


実際、日本の歴史では、この「刀狩り」後、2回大がかりな「武器の回収」が行われています。明治維新後の1876年に、「帯刀禁止令」が公布されました。また、第二次大戦後の1945年の占領軍による「武器引き渡し指令」です。この占領軍による回収で、推定300万本の刀が回収され、廃棄されたとのことです。2006年度末の銃刀法による登録された刀が250万点だったので、戦前の日本にはおよそ550万本の刀が「丸腰の民衆」の手にあったことになります。(藤木久志「刀狩り」岩波新書2005による)


 このように、「刀狩り」をキーワードに歴史を見ていくと、歴史の授業の面白さが再発見できるのではないでしょうか。

 

 他教科でも、自分の関心事をテーマとして、探究学習をします。その手法は総合的な学習だけではなくて、様々な教科の学習で活かすことができます。基礎・基本に対して、「活用型」学習という言葉通りの授業を実践したいならば、このような学習を年間の指導計画の随所に取り入れて行えば、無理のない実践が可能になると思います。

2014年10月12日日曜日

いいモデルの大切さ



前回紹介した『理解するってどういうこと?』で、まだ頭が一杯なので、それに関連した内容です。

かねがね、日本の教育で一番欠けているものの一つに、いいモデルがあると思っています。

確実に言えることは、人は教えられて学ぶのではなくて、いいモデルに憧れて、それに近づくため、あるいは刺激されて主体的に学んでいくんだと思います。そして、そのいいモデルを提供できていないところに、いまの学校教育の(最大の?)問題があるのかも、と。

それに対して、この本が殊の外大切にしているのが、モデルであり、メンター(よき先人)の存在なのです。各章は、そのオンパレードと言っていいぐらいです。
ほとんど誰でも知っているのは、ヴァン・ゴッホ(第3章)、ミケランジェロやダ・ヴィンチ(第6章)、パブロ・ネルーダ(第7章)、マティスとピカソ(第8章)。
知る人ぞ知るは、エドワード・ホッパー(第4章)、レイノルズ・プライス(第5章)、エドウィージ・ダンティカ(第9章)、エドゥアルド・ガレアーノ(第7章)。
著者の身近な人としては、編集者兼大学教授(まえがき)、教育長やWWやRWの先駆者たち(第1章)、自分の父と夫(第6章)、二人の祖父母(第8章)、親友(第9章)などです。

このように、常に自分がモデルになる必要はありません。(でも、的確なモデルを選ぶ能力は大切!!)

そして、各章の最後には、読者(教師)一人ひとりがモデルになるためのアイディアをいろいろ紹介してくれています。なんと言っても、各章の最後で著者は「子どもたちや同僚たちの知的で好奇心あふれたリーダーとして、私たちは日々の生活をどんな形で送ることができるか?」を問うていますから。
ぜひ、ちょっとした努力をすることで(一週間に90分!の時間を割くことで)、子どもたちがワクワクするようなモデルになってください。教科書教材研究することよりも、はるかに重要なことです。