2014年3月30日日曜日

80/20ルール



すでに来年度の学校経営方針は出来上がっていますか?
学校経営方針」という読まれないリストにしないための、続編です。

8020ルール」を聞いたことがありますか?

時間の80%を「大切なこと」に、20%を「やらなければいけないこと(別名、どうでもいいことないし誰でもできること)」に費やす、というものです。しかしながら、普通の人の時間の使い方は、これとは逆で、「やらなければいけないこと」に80%以上、そして「大切なこと」には20%以下の時間しか費やせていません。
これが、学校が変われない理由でもあります。大切なことへの時間が少なすぎますから。変化を起こす芽が育たない構造になっています。(もちろん、何が大切なのかを明確にできないことが最大の原因なのかもしれませんが。)

現状では、あなたが「やらなければいけないこと」に費やしている時間は何%ですか?  それに対して、「大切なこと」に費やせているのは何%?  
逆転する気はありますか?  その際のポイントは何だと思いますか?

学校経営方針の中に、もし10項目書きたいとすれば、その中で「大切なこと」は2つしかないということです。残りの8つは「やらなければいけないこと、ないしどうでもいいことないしほどほどやっておけばいいこと」です。
これを明確にできないと、2度の読まれないリストのできあがりです。
全部が大切として提示することは、基本的に「何もやらなくていいですよ」というメッセージを発信しているのと同じですから。
ぜひ、2つに絞ってください。それが、リーダーの役割です。

もし、たくさんの項目が書かれたリストを見せられたら、「本当に大切なこと」「今年度やり遂げられたら何よりもうれしいこと」をこの中から1つか2つか選ぶとすれば、どれですか?と質問することで、大切なことの中でも特に大切なことを言ってもらってください。

2014年3月23日日曜日

フィードバック機能をもたない成績表と学力テスト



前回のテーマのフィードバックの主な(負の?)媒体として位置づけられている成績表と学力テストが今回のテーマです。

年度末で、ここ2~3週間は成績をつける仕事で忙しかったのではないでしょうか(さらに、今日は休日なのに、指導要録を書くために登校している方もいるのでは)?

いったいこの成績づけ(成績表)にどれだけのフィードバック機能があるか、考えたことはありますか? 誰にとっての? もちろん、子どもたちや生徒たちです。そして忘れてはならないのは、教師にとってです。

よくよく考えると皆無に等しいのではないでしょうか?

建前的には、
よい成績は子どもにとって喜び・意欲・自信になる
悪い成績だと課題が分かり奮起することにつながる
教師は子どもの様子を改めてよく(客観的に)見ることになる
親や管理職への説明責任を果たせる
などがあがると思いますが、これらはいずれも「建前」です。(というか、単に「習慣」として言われているだけのこと。)学校以外では通じません。
圧倒的多数の子は、上の2つを体験しませんし、下の2つは教師の「なぐさめ」にすぎません。

成績をつけることのマイナス面をあげると、建前的なものではなく、切実なもののオンパレードになりますので、ぜひやってみてください。10個ぐらいはすぐあがるはずです。そして、総括的評価である成績では対処できない問題ばかりです。

なら、いったい無駄な時間とエネルギーをなぜ使い続けているのでしょうか?
なんとかしないと・・・・

一番いい方法は、授業の中に教師と子どもとの個別の対話(カンファランス)をふんだんにする、です。(他の形成的評価=学びのための評価なら何でもいいのですが。★)そうしたら、学期末や学年末までフィードバックを待つ必要はありません。ふんだんに学期中に行われるので、子どもの学びも、教師の教え方も日々改善され続けます。これほど単純な方法はありません。

もう一つの無駄な時間とお金を使っているのが学力テストです。

   <メルマガからのつづき>  

現場では、小6と中3の担任しか関係ないかもしれませんが・・・ 

文科省が全国学力テストをしている理由は、建前的に、  
   ① 学力向上 
      ②  説明責任

という2つの名目があげられています。 
そして、
   ③    授業の改善というか教師の指導力向上も、です。 
でも、本音の部分は単純に、 
   ④    全国を比較した情報を把握しておきたい
ということではないかと思います。(何のために、というのは二の次で。) 
さらには
         学力向上のために政治家と官僚は努力しています、
というジェスチャーをマスコミ/国民に見せたいというのが、最大の目的ではないでしょうか?

① そもそも、テストで学力は向上するでしょうか? しかも、今のやり方で?(要するには、イベント以外の何物でもない!)それは、年に一回(確か、4月末)、小六と中三を対象に実施される。その結果が戻ってくるのは、9月か10月。これで、子どもたちも教師もどうやって誤答に対応することも含めて、テストを受けた子どもたちに何らかのフォローアップ/フィードバックが行われるというのでしょうか? たとえ、それをしたとしても、本当に、学力の向上につながるでしょうか? 次年度の教え方の改善に生かされる可能性は? でも、誰の次年度の教え方に反映されるというのでしょうか??

② 確かに、共通のテストをして比較のできる結果が出て、それを公表すれば一見「説明責任」は果たしているかのように見えますが、いったい何の説明責任と言えるのでしょうか? アカウンタビリティ」の本来の意味が、お分かりないようです。「結果責任」です。「説明責任」ではありません!

③ 教師たちは、テストを使って(結果を踏まえて)自分たちの授業や指導力の向上に本当に活かすことができるのでしょうか? (①のような条件の下で)それを実現することは可能でしょうか?

⑥として、表には出せない隠れた目的は、能力不足の教師(や能力のない学校経営者である校長)の排除にあったのかもしれません。それを子どもたちのテストの点数という極めてわかりやすい形で表すことによって。

もし、①~③が達成されていない=フィードバック機能がないなら、文科省は税金を使って、単にベネッセなどのテスト業者を儲けさせているだけ、ということになります。 子どもたちの学ぶ時間も取り上げています。 そんなことが続いていいのでしょうか?


そういえば、フィードバック、サポート、コミュニケーションということで、一番下手というか、やれていないのは、文科省であり、教育委員会であり、管理職かもしれません。どうも、自分はメッセージを発信する立場だと思い込んでいる節があります。本当は、いいフィードバック、サポート、コミュニケーションをモデルで示していかないといけない立場にあるのに。
ほとんど、モデルを示す存在がいないのですから、よくやれるようにはなかなかなりません。そういえば、大学の教授と学生の関係も同じですね。
研修も。本来、いいフィードバック、サポート、コミュニケーションを練習する場であるはずなのに。

★ 詳しくは『テストだけでは測れない!』を参考にしてください。そのために書かれた本ですから。


2014年3月16日日曜日

フィードバック


  前回のテーマとの関連でも言えることなのですが、機能している関係や組織や社会に共通してあるものがフィードバックで、共通して存在しない(ないし弱い)のがフィードバックのような気がしています。(前回のテーマの「リサーチャーとしての教師」は、サイクルを一人で回し続けることもできなくはありませんが、同僚や上司あるいは外部のサポーター等との協力関係でやれれば、効果は倍増しますから。)

 学校に限らず、日本の場合は会社や役所等でも、このフィードバックが機能していないか、極めて弱い状態のところが多いです。フィードバックし合う関係ができていないというか、そもそもコミュニケーションや人間関係が築けていないというか。(とにかく、「みんなが個別に忙しい」のです。でも、それが続く限りは、個人も組織も成長できないのですから、子どもたちの学びの質と量が向上するはずがありません。)★

 フィードバックということで、一番手っ取り早いのは、これまでに何回かこのブログで紹介してきている「大切な友だち」の方法です。(つまり、カンファランス的な話し方!)
 この方法は、大人同士はもちろん、対象が子どもの時も、絶大な効果を生みます。

① 相手への関心を示して、100%集中して聞く・見る。(必要ならメモもとりながら)
② 聞いて(見て)いてわからなかった点やハッキリしなかった点は質問する。こちらが勝手に解釈してしまってはまずいですから。
③ 聞いて(見て)いてよかった点は、些細なことも含めて、できるだけ具体的にたくさん指摘する。いい点を指摘されて、歓ばない人はいませんから。
④ 改善できると思った点は、質問の形に切り替えて問いかける。フィードバックされた側は、すぐに答える必要はない。すぐに修正・改善できるようなものの方が少ないので、引きずることが大切!!
⑤ よかった点と改善を要する点の中で、もっとも強調したい点1~3つに絞って、フィードバックする相手に「愛を込めたメッセージ(=ラブ・レター)」を送る。ラブ・レターをもらってうれしくない人はいません。たとえ、その内容がなんであれ。愛さえこもっていれば、フィードバックする側の意図は通じます。

 最初のうちは、なかなか③を出すために①をすることができません。あら捜しは、頼まれなくてもできるのですが。どうも、私たちはそう習慣づけられてしまっているようです。
 でも、練習次第で、誰でも、②~⑤はできるようになりますから、ぜひ練習してください。同僚と。そして子どもたちに対しても。
 時間がないときは、②~④を省いて、①と⑤だけということになりますが、それは双方が練習をつんで、②~④がしっかり自分たちのものになった上でないと、最初から⑤だけをやろうと思っても無理です。なかなか伝わるものではありません。

 「大切な友だち」を使って、フィードバック、サポート、コミュニケーションを円滑にする練習をしてください。これらがないと、個人も組織も成長できませんから。


★この理由は複合的だと思いますが、以下のような学校や組織の現状から来ています。


2014年3月9日日曜日

リサーチャーとしての教師



  「自分の教え方(授業)を振り返る。絶えず自己評価し、修正/改善する」ことが、「リサーチャーとしての教師」であり、すべての教師に求められているのではないでしょうか。

「研究者」としてのとしてしまうと、校内研究の悪いイメージに引っ張られたり、現場の役に立っているとは言いがたい大学の研究者をイメージしてしまうので、あえてカタカナのままにします。研究授業の時だけ、やればいいものではなく、年間を通して、絶えず自己評価し、修正/改善するアプローチです。★

 教師たちが主体的に(コミットして)教えていない=言われたことをこなしているレベルでは、子どもたちもお付き合いのレベルなので、いい成果は期待できません。求めるべきは、教師のコミットメントです。それには、主体/主役になってもらうこと。教科書をカバーする教え方ではとうぜんダメです。自分が何をどう教えたいのかを判断し、新しいことに果敢に挑戦し、それを振り返り/自己評価し、修正/改善して、さらに挑戦してみるというサイクルを回し続けないと。それが学ぶモデルとして子どもたちに自ずと伝わっていきます!

 そういう中では、校長もリサーチャーになって、教師と一緒に取り組むことで、コミットメントが伝播していく選択肢しかありません。やらせるスタンスになった途端、教師たちもお付き合いのレベルでしか関わってくれないことはわかっていますから。コミットメントを得たいなら校長がモデルで示すしか。

 リサーチャーになるということは、「へこまない」ことを意味します。かの有名な発明王のエジソンは、一つの成功のために1878回の失敗をしたぐらいです。そもそも「失敗」自体が存在しません。何かをすれば、プラスだけでなくマイナス面も見えてきますが、それはチャンスでしかないからです!

 リサーチャーになることは、すべての人(校長、教師、そして子どもたち)の中に眠っている宝ものを揺り起こして行動に移させる働きがあります。

●参考
 実践と振り返りのサイクルは、以下の図の通りです。



 出典:『「考える力」はこうしてつける』の16ページ。このアイディアに興味のある方は、特に同書の第1章「教師と振り返り」をお読みください。

★ これをしている教え方・学び方が、このブログでも繰り返し紹介してきているライティング・ワークショップ(作家の時間)やリーディング・ワークショップ(読書家の時間)です。

2014年3月2日日曜日

とても参考になる他業種の試み



  参考になることが書いてあったのは、『医師は最善を尽くしているか』アトゥール・ガワンデ著、みすず書房です。以下は、その「あとがき」から、ポジティブな逸脱をするための5つの提案をまとめました。

① 筋書きにない質問をしなさい  ~ ありきたりの思考から脱することができる。思わぬ出会いや発見が可能になる。質問すれば、機械の歯車も違ったように感じられるだろう。
     不平を漏らすな  ~ 医師が不平を漏らすのを聞くことほど、周りのやる気を奪うものはない。
   医師は自分で自分のコーチをしなければならない。困難な局面にさしかかったとき、駆け寄ってきてくれるコーチはおらず、医師は自分で自分を励まさなければならない。しかし、医師はそれがうまいとは言えない。会議室や学会場、病院のカフェテリアなど、医師が集うところならどこでも、会話の重心はわれわれを取り囲む災いについての長談義に傾いてしまう。しかし、これに抵抗しなければならない。災いの長談義はつまらないし、何も解決しないし、人を落ち込ませる。どんなときでも太陽に明るくふるまえというわけではない。何か他の話ができる準備しておきなさい。読んだ本にあったアイディア、出会った面白い問題、何もなければ天気の話でもいい。それで会話を続けられるかどうか試してみてほしい。
     何かを教えろ  ~ 教えることでこそ、学べる
     何か書け  ~ ブログに数節書いたり、医学雑誌に論文を投稿したり、あるいは文学同好会で自作の詩を披露したりなどなんでもいい。とにかく書きなさい。完璧を目指す必要はない。あなた自身の世界を観察してくれる他人を加えることだけが必要である。
   書くという行為は、仕事から一歩身を引き、問題を見通す機会を与えてくれる。度を過ぎた怒りに駆られたときでも、書くことによって、思慮深さをある程度は保てる。
   そして何よりも、たとえ小さなことでも、読み手に周りの大きな世界の一員という感覚を与えてくれる。読み手とはコミュニティのことである。文字になった言葉はそのコミュニティの中の一員になったという宣言であり、そしてそのコミュニティに今後も何かで貢献するというやる気の表れでもある。
   だから、読み手を選びなさい。何かを書きなさい。
⑤ 変われ  ~ 大半の後期採用者(late adopter)でも、ずっと疑い続けて、変化に抵抗する者でもなく、少数の初期採用者(early adopter)になりなさい。変化するためのチャンスを探しなさい。すべての新しいトレンドを追いかけろというのではない。今やっていることの不十分さを努めて認めるようにし、そして解決法を探すようにしなさい。いくら成功したとしても、不確定性と失敗はいつでも医学につきまとう。それゆえ、医学は人間的である。時には痛みを伴い、時にはやりがいがあるだろう。
   医師の決断は不完全なものにならざるをえないが、それが人命を左右する。この現実があるから、他人と同じことをするのが一番安全だと人は思いがちである。医療という機械のなかの白衣を着た歯車になるわけである。
   しかし、医師はそうなってはいけない。社会に対するリスクと責任を他の誰かに押し付けてもいけない。何か新しいことを試し、何か変えてみなさい。何回成功し、何回失敗したかを数えなさい。それについて書きなさい。どう思うか人に聞きなさい。そして、会話がどこまで続けられるか試してみなさい。

 仕事はなんであれ、現状を打開する方法は似たり寄ったりということでしょうか? 医師を教師に、医学を教育に置き換えると、ほとんどそのまま読めると思われませんか? でも、皆さんにとって参考になるのは、あとがき部分だけかもしれませんから、購入までは薦めないかも。