2015年2月22日日曜日

本質的な問い


最近は何でも検定があり、〇〇検定と名の付くものはどれくらいあるのでしょうか。

 その中の一つ、「科学検定」の公式問題集が講談社ブルーバックスという新書に「科学検定公式問題集」(桑子 研・竹田淳一郎/2014)という形で市販されています。

 この本は、5,6級の問題ということで、小学校4年から中学1年レベルとなっています。

 監修者であるサイエンス作家の竹内薫さんは「科学検定の問題は、検定資格のための問題ではなく、あくまでも、科学の楽しさを再発見してもらうための問題。ですから、問題を解いて解説を読むことは、知的なエンターテインメントにほかなりません。」と「まえがき」で述べています。

 小学校4年から中学1年レベルだから、そんなに難しくはないだろうと思い読み始めたのですが、なかなか手ごわい問題がいくつもありました。

 
   この本のあとがきで、著者の一人である竹田さんは「科学検定の問題はどれも実際に実験をして確かめられるものばかりです。」と書いていますが、特に、物理・化学分野の問題は自分で体験できる問題が多く掲載されています。それに比べると生物・地学分野はなかなか自分で実験をするというのは難しいものもありますが、それらの問題でもその学問領域の中心概念を踏まえた、とてもよい問いがいくつもありました。

 
   たとえば、「生き物だけがもっている特徴はどれですか。」(同書p.61「生物」第10)という問いがあります。回答の選択肢は次の3つです。
  1. 細胞でできている
  2. 酸素を使って、二酸化炭素を出す
  3. エネルギーの元となるものを取り込んでうごく
みなさんは、どれが正解だと思いますか?

 正解は、【ア】ですが、生物の体の一番の特徴がこの「細胞」であるということは、おそらく生物学の最も重要な出発点でしょう。


 1665年、イギリスのロバート・フックが顕微鏡を使った観察記録を『顕微鏡図譜』として出版しましたが、コルクを観察した際に小さな部屋のような構造を発見したことは有名です。この小さな部屋を「細胞」と名付けたわけですが、これが生物学史上初の観察だったわけですね。

  理科の授業においても、このようなその学問の中心概念に係わる大切な知識や、簡単に答えの出ないような問い、あるいは観察や実験を経て、そのデータから合理的な理由をもって、結論を導き出せるような問いを大切にしていきたいものです。

 そのような問いを作るためには、この問題集のような本を元にしてもいいわけですし、その教科に関連する文献、新聞、雑誌などを元にしてもいいわけです。いずれにしても、教師の学びが必要になってくるわけです。そして、さらに言えば、子どもたち自身が、このような本質的な問いを作り出し、追究していくこと、これが最終的な目標ではないでしょうか。

2015年2月15日日曜日

問いを大切にした学び


先週のPLC便りで取り上げた『「正解」よりも「問い」を大切に』について引き続き考えてみたいと思います。

 
    29日付の日本教育新聞に筑波大学附属小学校の田中博史さんの「算数の基礎・基本」という記事が掲載されていました。そこに次のような文があります。

 
    「算数の時間では、何が子どもたちの楽しさを遮る鎧甲(よろいかぶと)になっているのか。一つが、人前で間違えることである。事前に学習塾で習ったことを言えば脚光を浴びるなど、こうした状況では、子どもたちが自らの弱みを見せたり素直にはなりにくい。いつも正解を求めるという発想を変える必要がある。」

 
    「正解」を重視する授業だけをやっていては、子どもたちが本気になって考えるという状況を作り出すことはできないでしょう。「間違えてもいい」と安心して、発言できるような雰囲気を作ること。これは「学びの原則」にも取り上げられている「安心して学べること」まさにそのものです。

 
   「正解」を追求しない授業例として田中博史さんは次のような例を紹介しています。

 
 「1/21/3」の計算をするときに、最初から間違え方を予想させると、思ったことがあっても言えなかった子から発言が出てくるようになる。「2/5。今までの計算と同じように、分母と分子を別々に足せばいいんだよ。」こうした子どもの考えが出てくる。その理由として「『二桁同士のたし算』では、十の位は十の位、一の位は一の位を足したから」などの声が上がる。そこで、「説明がしっかりしているから、その計算でいいかな」と問い掛けると、「それだと答えが違うよ!」と通分を取り上げようとする子が出てくる。

 すかさず、「先生が言っている間違った子というのは、下の学年の子で通分を知らないんだよ。2/5ではないことをどう伝えればいい?」と続ける。・・・

 
    このように下学年の間違いを想定して、自由に発言できる雰囲気の中で、話し合いながら考えを修正していくという手法を取り入れるだけでも、授業が変わり、子どもが変っていくのだと思います。

「正解のみを追求する」授業をやめて、「問いを大切にする」授業へ変えていくこと。もっと多くの教師がこの方向へ一歩を踏み出してほしいものです。

 

 

2015年2月8日日曜日

「正解」より「問い」を大切に



「最も頻繁に起こるマネジメントの問題は、正しい答えを見つけることができなかったことではありません。いい質問を問えなかったことです。」

これは、有名なマネジメント・コンサルタントのピーター・ドラッカーが言ったことです。
このことは、ビジネスの世界だけでなくて、福祉でも、環境でも、政治でも、役所でも、そして教育でも、等しく言えることではないでしょうか?

しかも、教育ほど「正解」が大事にされている分野はないというのが現状です。

小学校に入る前の子どもたちは、質問だらけですが(それが、成長するということであり、学ぶということですから)、1年生を終わるころまでには、質問は減り、教師の言うことを聞くほうにウェートが置かれ始めます。その方が、得だとわかるからでしょうか? そして学年が上がるにつれ、質問をすることなど考えられなくなります。

アメリカにも、「子どもたちは<?マーク>で入学してきて、<。ピリオド>で卒業する」という言い回しがあるようですから、状況は日本と変わらないようです。

でも、質問しない、あるいは質問する能力を萎えさせるような教育をしていて本当にいいのでしょうか?

そういえば、職員会議などでも、本質的な質問をする教員は嫌われがちですね。「いまさら、そんなことは聞くな!」という冷たい矢のような視線があちこちから飛んできます。それが、学校が変わらない/変われない最大の要因なのに。

テスト偏重のいまのおかしな日本の教育では、質問をしていてもなんのプラスにもならないと思われがちです。
が、そんなことはありません。
正解を覚えた(子どもの観点からは、「覚えさせられた」)ところで、その寿命が極めて短いことは誰でも知っています。(受験を体験した人は、「あれは、本当の勉強じゃありません!」と言い切ってしまうぐらいですから。要するに、どれだけ(短期的な)記憶ができるかの競争をさせられているだけというのは、気づいているわけです。)
なら、そんな無駄なこと(残る確率が極めて低く、ましてや使いこなせるような代物がほとんどないことが、分かっているのですから)をさせ続けるのではなく、もっと効率かつ効果的な方法があります。

それは、教師が正解を子どもたちに言わせるような質問(発問)をする変わりに、教師は子どもたちが(言わせたい正解を含めて、考え始めたくなるような)質問を出せるような投げかけをするのです。
自分がした質問と他人がした質問には、大きな違いがあります。
後者は、ほとんどの場合はお付き合いのレベルですが、前者は自分のものです。
自分のものは、その答えを知りたくなりますし、知った時には暗記の必要もありません。

子どもたちも練習次第で、先の引用でドラッカーが言っていたように、「いい質問」がドンドン出せるようになります。
まさに、これは社会が求めている大切な能力ではないでしょうか?

この、子どもたちが質問をつくり出すという試み、試してみる価値はあると思いませんか?
(興味の持てた方は、pro.workshop@gmail.comまでメールください。もちろん、対象は「子どもたち」に限定されません。教職員でも、同僚でも、部下でも、参加者でも誰が対象でもやれてしまいます!!)

2015年2月1日日曜日

日本の教育に欠けている「agency/agent」



agencyagent という言葉があります。いまだかつて、日本語に訳せないで困っています。

辞書を見ると、agencyには、
   1. 代理店、取次店、あっせん所
      2. 取り次ぎ、周旋、仲介 
      3. 代理人、仲介者◆【同】agent
      4.〔政府の〕機関、局
   5.《the Agency》〈米〉中央情報局Central Intelligence Agency
      6.〔力の〕作用、働き
   7.《法律》〔依頼主との〕代理関係
      8.《言語学》〔動作主の〕動作主性
 →9.〔哲学や社会学における〕行為者性、行為主体性

という意味が。そして、agentには、以下のような意味があります。

     1. 代理人、代理業者、代理店、取次人、仲介者
2.〔政府の〕職員、係官、調査官、護衛官◆与えられた権限に基づいて職務を行う人。
3.〈話〉スパイ、工作員、諜報員
4.〔ある結果を引き起こす〕化学[作用・原因]物質、病原体
5.〔変化をもたらす〕主体、手段、媒介、作用因子
6. 《言語学》〔格文法の〕動作主
7. 《コ》エージェント◆日常的なタスクを自動的に行うプログラム。

それぞれ、ピンクに染めた部分が、私が取り上げたい意味ではあるのですが、「変化の主体(者意識)」で通じますか?

これについては、http://thegiverisreborn.blogspot.jp/search?q=agencyなどで、すでに触れたことがあります。日本の歴史教育の中にはもちろん存在しませんし、社会科全般に存在しません。理科にも、算数・数学にも、国語にも、英語にも・・・・

これは、民主主義の維持・発展のために教育があると信じ、かつ行われている国々と、民主主義が言葉としてしか存在せず★、教育の目的自体が定かでない国との違いでしょうか? 

agencyがもてるように教えるためには、教える教師の側が、その意識があるだけでなく、ある程度そういう体験をしていないと難しい部分はあります。自分が動けば、世の中がとは言わないまでも、組織や物事のやり方が変えられるんだ、という意識や方法などをです。

その意味で、日々の授業と、研修や研究などは、コインの裏表の関係にあります。
自分たちが枠だと思っている「枠」は、本当はどこまでが枠で、それ以上は自由というか選択なのでしょうか?


会議とは、ロの字型になって座るものという暗黙の了解というか習慣がありますから。
これは、「枠」です。

しかし、思考も、学校でしていることも、ロの字型に座っている限りは、変わることが期待できません。agencyagentを限りなく、難しくする座敷の配置ですから。基本的に教室の座席も同じです。主体者意識を持たせない配置になっています。★★


★ 日本の民主主義が(市民もほんのわずかしか)存在しない最大の理由は、このagency/agentの欠落だと思っています。こちらも、コインの裏表の関係です。
さらにいえば、私自身が都市計画/まちづくりという仕事から教育に移った理由も、agency/agent 欠落でした。一般人は、すでに税金を納めているのに「市民参加」といっても動きません。一方、役所は「市民/住民参加」の大切さは声高に叫びますが、本音では参加してほしくありませんし、そのための効果的な方法をまだ持ち合わせていません。これでは、いつまで経っても、私が本来やりたい仕事ができないことがわかってしまったのです。もう35年も前のことですが。

  「民主的な社会の一員としての市民の役割とは何か?」を問うことが今の日本にはあるでしょうか? これは、「学校の一構成員の役割とは何か?」を問うことと同じだと思います。それは、教師だけが問われるのではなく、保護者や生徒たちもですが。

★★ 『理解するってどういうこと?』や『「考える力」はこうしてつける』を注意して読んでいただけると、この辺への打開策が見えるはずです。