2015年9月27日日曜日

「たった一つを変えるだけ」


今回は最近出版された「たった一つを変えるだけ」(ダン・ロスステイン、ルース・サンタナ/訳・吉田新一郎・新評論2015)を取り上げます。

私は中学校教員を30数年やりましたが、ここ15年くらい前から「エッセンシャル・クエスチョン」を研究対象の一つにしてから、「問い」の重要性について考えてきました。その問いの大切さについてこれほどわかりやすく、また具体的にその進め方について語ってくれた本はないと思います。

同書10ページの「質問づくり」には次のように述べられています。

 質問づくりは、過去20年間にわたって慎重に開発され、試され、簡素化され、改善されてきました。その手順は、以下の7つの段階に分けられます。

①「質問の焦点」は教師によって考えられ、生徒たちがつくり出す質問の出発点となる。

②単純な四つのルールが紹介される。

③生徒たちが質問をつくり出す。

④生徒たちが「閉じた質問」と「開いた質問」を書き換える。

⑤生徒たちが優先順位の高い質問を選択する。

⑥優先順位の高い質問を使って、教師と生徒が次にすることを計画する。

⑦ここまでしたことを生徒たちが振り返る-----学んだことは何か? どのようにして学んだか? 学んだことをどのように応用できそうかなど。

 
   この④の「閉じた質問」「開いた質問」の視点は大切ですね。私も中学校で理科を教えていたころは、気が付くと「閉じた質問」ばかりで授業を進めていたことを思い出します。これでは、教師と生徒の一対一のやり取りだけで終始してしまい、深まりのある授業はできません。「閉じた質問」を「開いた質問」に変えていくことで、生徒はよりよく学べるものと思います。それから、質問を考えた後に、その中から、優先順位の高いものを選び出すという活動も重要です。様々な情報の中から、大切なものを選び出すことは、これからの社会で生きていくために必要なスキルの一つであることは間違いないでしょう。そのような力を育てていくことは学校の授業の大切な役割の一つであると思います。

    ⑥もまた重要ですね。これから学習する内容をここで、教師が生徒とともに、決めていく。これなら「学習意欲が低い」というような課題は出てくるはずがありません。むしろ、子どもたちが進んでやりたくなるような活動を計画することができるわけです。
   
 ⑦最後に、「振り返り」です。これによって、さらにこの学習を深化させることができます。

 本当に、この「たった一つを変えるだけ」が多くの教室で実行されるならば、今の教育は間違いなく変わるものと思います。近年、大都市近郊では、小中学校に若い先生方がたくさん採用されています。この先生たちが、「教師からの問いかけ」を中心とした従来の授業のやり方を真似るのではなく、「子どもからの問い」を大切にする授業にするだけでも、この国の教育が変わっていくものと思います。「たった一つを変えるだけ」をぜひ多くの若い教師に読んでもらいたいですね。

 

 

 

2015年9月20日日曜日

国会で起こっていることと学校で起こっていること



安保法案の「悲劇」の記憶はまだ新しいと思いますが・・・・

あれを見ていて私が思ったことは、国会で起こっていることと、学校で起こっていることとの共通性でした。
どういうことかというと、安倍さんをはじめ自民党を中心とした議員たちは「よかれ」と思ってしています。あたかも「自分たちは先見性があるのだ」と思い込んで。
そして、自分の周りにいる圧倒的多数の国民(選挙民)の声に耳を傾けようとはしません。
(もちろん、聞く必要はないとも思い込んでいます。選挙でみそぎは終わっていますから。★)

この辺が、学校で起こっていることと似ていると思ったのです。
先生たちは、少なくとも子どもたちよりは先見性があると思っています。(少なくとも、10数年以上は長く生きてきているから?)。
そして、耳を傾けないことも似ています。子どもたちの声にも、親たちの声にも。

あなたは、子どもたちや、親たちの声に耳を傾けていますか?

安倍さんたち議員に、いまさら耳を傾けるように教えることは不可能です。

でも、未来の安倍さんたちに対して、いまからモデルを示すことはできます。
教師が耳を傾けることで。(もちろん、教師以外の大人たちも!)

少し長期的な話しになりますが、今回の「異常な」出来事★★を見ていて、そのように解釈するしか、救われようがないかな、と思った次第です。

もちろん、先生たちに全責任を負わせるつもりはありませんが・・・・他に考えられる方法が見つかりませんでした。原則は、一人ひとりの気づいた人のアクションです。無理やりやらせて、効果の上がるようなことではありませんから。(それこそ、逆効果!? 文科省や教育委員会が、いつも先生たちにしていること?になってしまいます。そういえば、官僚や役人も安倍さんはじめ国会議員と同じことを常にしてますね。)


★ この発想自体がおかしい/異常だと思いませんか? それでは、自ら選挙という制度自体を壊している気さえします。もちろん、大人しく黙っている有権者サイドにも半分の問題はあるわけですが・・・・。白紙委任をしていると思って投票している人は、どれだけいるでしょうか? そしてさらに言えば、いまの選挙制度が有権者にとって機能しているとは言い難いです。議員サイドに機能しているがゆえに続いている制度です。

★★ しかし、この「異常な」出来事は、安倍さんからすると、すでに「国民」が自民党に投票した(しかも、あんな圧倒的な勝利を献上した)時点で、安保法案を通すことは既定路線だったわけです。そうじゃないと、一国の首相がアメリカの議会で「夏までに法案は通します」と言えるはずがありません。
  選挙に通ってさえいれば、自分のシナリオ通りに進められると・・・・ これって、多くの先生たちが指導案という名のシナリオ通りに授業を進めるのと似ていませんか?
  なんと、安倍さんのしでかした今回の騒動(そんな生易しいものではありませんが!)と教師たちが日々授業で使っている指導案はつながっているのでした!!

  指導案の検討や協議(そして指導案をもとに行われた研究授業や協議)というのは、国会が国民に見せしめた数百時間の異常な/アホな(?)やり取りにどこか似ていると思われませんか?
  国会議員に、それを改めることを求めても、時すでに遅しの人たちです。
  だから、未来の安倍さんたちに期待するしかないかと・・・・甘いでしょうか。
  未来の安倍さんたちに期待するということは、今の今、私たちが子ども(や親)たちを対象に、アクションを起こすことを意味しています!! 単に、口をくわえて、30年~50年後を待つことではありません。待ったところで、同じことが繰り返されるのは、過去70年間がすでに証明してくれていますから。

★★★ ところで、他にも国会と学校とのつながりはありますか?

2015年9月13日日曜日

『ポジティブ心理学の挑戦』



夏休みに読んだ本の紹介の第2弾は、
『ポジティブ心理学の挑戦』(マーティン・セリグマン著)です。

著者は、「学習性無力感」★で一躍有名になった人で、ポジティブ心理学の「父」とも言われています。
そのポジティブ心理学とは・・・(上記の本からの引用、数字はページ数)

25 私が意図するポジティブ心理学とは、人間がそのもののよさのために何を選ぶか、ということに尽きる。
   前著(『世界でひとつだけの幸せ』だが、著者は『ポジティブ心理学』としたかった。 でも、「幸せ」とか「幸福」の方が売れるので、出版社に押し切られた)における理論とは、幸せを3つの異なる要素に分けて分析できるものだった。その3つの要素とは、「ポジティブ感情」「エンゲージメント」「意味・意義」であり、いずれもそのもののよさのために選ばれる要素である。

   「ポジティブ感情」だが、これは、楽しみ、歓喜、恍惚感、温もり、心地よさなど、自分が「感じるもの」のことだ。→「快の人生」
   「エンゲージメント」とは「フロー」に関することだ。フローとは、音楽との一体感や、時が止まる感覚や、無我夢中になる行為の最中での没我の感覚のことだ。→「充実した人生」
26 フローの状態を得るために重要なのは、自分の最高の強みを見つけて、それらの強みを頻繁に活用することを学ぶことだ。
   「意味・意義」→人間はどうしても人生に意味や目的をほしがるものなのだ。→「有意義な人生」(自分よりも大きいと信じるものに属して、そこに仕えるという生き方)

 それから10年、彼の理論は進化して、幸福理論からウェルビーイング理論(持続的幸福度)へ進化しました。表にすると(29ページ)

 そして、持続的幸福を実現する特徴は(54ページ)は、
  社会ではもちろんですが、学校や授業でも必要だと思いませんか?
 このあと、これらの特徴を調べるための方法や、強化するためのエキササイズが紹介されています。

 そして、 ポジティブ心理学とコーチングの相性のよさについても(128~131ページに)書いてあります。

 さらに、143ページ以降には「ウェルビーイングを学校で教えるべきか?」に答える形で、具体的に導入している学校の紹介もされています。

 そういえば、ここで紹介されていたプログラムを導入していたのはオーストラリアの中等学校だったのですが、アメリカで導入している学校の紹介は『成功する子 失敗する子――何が「その後の人生」を決めるのか』ポール・タフ著に書いてありました。
 内容的には、前回紹介した『クオリティ・スクール』とかぶるところもあると思います。要するに、質の確保をいかにはかるか、です。


★「学習性無力感」とは、セリグマンが1967年に発表した概念で、抵抗することも回避することも困難なストレスに長期間さらされ続けると、そうした不快な状況下から逃れようとする自発的な行動すら起こらなくなる現象をいいます。
ちなみに、日本では佐藤学さんの『「学び」から逃走する子どもたち』がありますが、この現象は学校および教室で「学習性無力感」の状況に置かれ続ける子どもたちが必然的に起こしている結果と捉えられます。

2015年9月6日日曜日

クオリティ・スクール = 質を大切にする学校

夏休み中に読んだいい本の紹介です。
   『クオリティ・スクール』ウィリアム・グラッサー著
この本の英語版(=原書)を90年代の中ごろに読みました。
最近、その日本語訳が出ているのを知ったので、再読しました。いいことがたくさん書いてあるので紹介します。
ちなみにこの本、いまは存在しないサイマル出版社から出ていたので、中古で買うか、図書館で借りて読むかの選択肢しかありません。
なんとグラッサーが、一番参考にしたのは、日本の経済成長=日本企業の成長を推進するのに貢献したエドワーズ・デミングの「品質管理」の考え方でした!!★

以下、私のノートより(数字は、ページ数です。青字は私のコメント)。

まえがきの5ページ: ボスとリーダーの比較 ~ アポロ高校の実践から

ボスは駆り立て、リーダーは導く。
ボスは権威に依存し、リーダーは協力を頼みとする。
ボスは「私」と言い、リーダーは「私たち」と言う。
ボスは恐れを引きだし、リーダーは確信を育む。
ボスはどうするか知っているが、リーダーはどうするかを示す。
ボスは恨みをつくりだし、リーダーは情熱を生みだす。
ボスは責め、リーダーは誤りを正す。
ボスは仕事を単調なものにし、リーダーは仕事を興味深くする。

読みながら、以下のような項目を付け足せるかな、と思いました。

ボスは部下を従わせるだけ、リーダーは部下を自ら行動させる。  
ボスは部下に考えさせない、リーダーは部下に考えさせる。 
ボスは上質がわかっていない、リーダーは上質がわかっている。 
ボスは評価するだけ、リーダーは部下に自己評価・修正・改善をさせる。 
ボスは退屈、リーダーは楽しい。 
    ~ 以上は、当然のことながら、教室の教師にも当てはまる!!

6 日本企業に大きな影響を与えた品質管理(カイゼン)の神様=エドワーズ・デミング

12 学校のテスト以外ではだれも使わないと分かっているような事実を暗記することほど退屈なものはない。私たちの記憶にある良い教師は、私たちを退屈させなかった。教師が私たちにするよう求めたことは、何らかのかたちで私たちを満足させるものであった。
13 良い教師は強制しない  ~  生徒に選択させる!! それが、エンパワーすることになる
   私たちの学校では、強制的な教師の存在は珍しいことではなく、普通である。

15 学業はもとより、質の高いものは何であれ、標準化された、機械が採点するような客観テストでは測定できない。
   インタビューしたり、観察したり、追跡調査をしたりの、質的なかたちでしか測れない!!
   今日、生徒たちは、いろいろな強制的な方法で質の低い勉強が機械で測定され、それがほとんどどこの学校でも上級管理者の最優先事項であると気づいている。これは、今日の私たちの自己破壊的なシステムの症状の表れといえよう。 ~ 学力テストや入試を含めて、まさに、これをやり続けている日本!!

21 「効果的」に教えるとは

 私たちがちょっと気合を入れて、圧力をかけさえすれば、教師により良い仕事をさせることができるはずだと。(たとえば、学力テストの点数の公表など)これほど真理から外れたものはない。
22 教えることほど難しいものはない。
   効果的な良い教師とは、学校で自分が担当する生徒のうち、半数でも、8割でもなく、ほとんど全員に質の高い勉強をさせるように説得できる教師である。生徒が自分たちの能力を全開させられる教師である。
24 物よりも、人を管理する方がはるかに難しく、さらには生徒を従業員と見れば、生徒が最も抵抗するタイプであることに異議をさしはさむ人はいない。

40 学校教育で普及しているボス・マネジメント
46 求められているリード・マネジメントへの転換

59 ボス・マネジメントは、「動機づけ」について、完全に誤解している。ボス・マネジャーは、人は外部から動機づけられると固く信じている。彼らは、動機づけは、すべて内側から来ることを理解していない。 ~ 学力テストや入試は、その象徴!! 動機づけに興味のある方には、『人を伸ばす力―内発と自律のすすめ』エドワード・デシ著がオススメです。


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95 強制では、上質は生まれない

113 すべての行動は選択だという時に、すべての行動は常に行為、思考、感情、生理反応の混じり合ったものであることを意味している。
  行為と思考は選択できるが、感情と生理反応は選択できない。

129 「上質」は定義するのが難しい概念であるが、私たちのほとんどはそれを見れば分かる。そして、ほとんどの生徒は、クラスで指示された勉強の中に「上質」を見出すことができない。一方で、彼らは、ほとんどのクラブ活動につきものの「上質」をたやすく見ることができる。彼らは、質の高い音楽、演劇を求める能力を持っており、フットボールのチームが良いチームかどうか、見れば分かる。
   生徒が部活動に進んで参加するときに、楽しみ、自由、力、そして人との触れ合いが「上質」なものを与えてくれ、生徒はこれを求めて一生懸命、部活に取り組む。実のところ、この部活動が自由参加であることが、より一層魅力的にしている。選択の自由が私たちの選択するものに「上質」を付加している。もし生徒全員がフットボールをしなければならないとなれば(例えば、体育の授業などで)、明らかにこの活動にはたいした「上質」が見られなくなる。
130 それに対して、高校一年生の国語の必修教科を見てみよう。このクラスの普通の日に、熱心に勉強している生徒は十人以下だ。残りの生徒は、そこに座っているだけで何もしていない。勉強していない生徒に、その理由を聞くと、彼らは授業が面白くない、必要がない、何を考えていてもだれも気にかけないと答える。勉強は教師にとって価値があるかもしれないが、生徒は価値を見出していない。
131 熱心に勉強している生徒になぜ勉強しているか、その理由を聞く。彼らは、良い成績をとりたい、親を失望させたくないと答える。勉強に価値や「上質」があると言う答えはあまりしない。どんな職場と比較しても学校は、多くの強制的な教科があって、取り組むように言われた勉強に「上質」を思い描くことさえできないほど問題に満ちている。
  生徒が学校が嫌いだと言うときに、彼らの言い分の多くは、自分たちの欲求を満たさないことに熱心に取り組まなければなければならないことが嫌なのだということだ。
  ・・・彼らのほとんどにとって、アルバイトで指示されたこと(例えば、掃除する、礼儀正しく、迅速に)の中に「上質」を見つけるほうが、学校で読むこと、計算することの中に「上質」を見つけるより、ずっと簡単なのだ。
133 「上質」の仕事とは何かを見失っていた1970~90年代ぐらいのアメリカの自動車産業。 ~ 「安くて小さい日本車」と言われながらも、「上質」の日本車がアメリカ中で広く受け入れられた時代。同じことは、電気製品を含めて多くの産業製品に言えた。
134 不幸なことに、認識できる「上質」教育のモデルを見つけることは、質の高い車を見つけるほど簡単ではない。しかし、ひとたび「上質」こそ問題に対する答えだと分かれば、私たちは少なくともこうしたモデルを探し始める。これは重要な第一歩だ。

135 問題は、教育界に「上質」を見つけることが困難なことにある。その困難の理由は、あらゆる教科を小さな断片的な知識にして、テストで「客観的」に測定できるようにすべきだ、と上から押しつけが強くなっているからだ。
    生徒は大学進学というイメージ写真を上質世界に入れている。そしてそのためにはこの質の低い勉強も必要だと割り切って一生懸命勉強する者もいる。しかしながら、ほとんどの生徒は、このようなテストで良い成績をとるための勉強には何の「上質「」も見出せない。・・・勉強自身に何の価値もなければ、勉強をする気になる生徒の数は減る一方だ。
    質の高い学校とは生徒が行儀よく「上質」とは言えない学力テストで平均以上(あるいは、上位になること! ~いずれにしても「上質」と言えない)をとる学校、と考えられている。これは大きな間違いだ。これは、70年代、80年代の自動車産業を倒産に追い込んでいたはずのやり方と同じことを、学校で実践しようと懸命に努力しているようなものだ。デザインの悪いおそまつに造られた車でも、最低の検査基準はパスする。人びとはより良いものを知らないし、より良い車もないので、それを買っていた。人びとは、私たちの学校をまたサポートしてくれているが、不満は増大している。

151 成績評価の新しいシステム ~ こんなに前から、今の評価システムに代わる具体的な方法が提示されていたとは!! しかし、いまだにこれの足元にもたどりつけていない。評価と指導は一体化されたものであるということが、いまだに気づけていない!
152 成績という強制力
155 悪い成績はつけない ~ 誰もがいい成績は取れるから
156 悪い成績はつけるものではなくて、生徒と教師が(親の参加も得ながら)一緒になって解決すべき問題という捉え方。 できる生徒とできない生徒を分けるための手段ではない!!
    クオリティ・スクールが伝統的な学校とはなはだしく違うところは、生徒が質の高い勉強をした教科の成績だけが記録されること。質の高さを示す勉強で最も低い成績はBで、それ以上の優秀なものには、AA-が記録される。
157 クオリティ・スクールでは、記録があることは生徒が知っていることを示し、知らないことを示すためではない。
158 あたたかい、支援的な雰囲気に満ちたクオリティ・スクールでは失敗はなく、ほとんどいつも個人的に教えてもらえる可能性がある。生徒は欲求充足ができ、成績を上げるような勉強をすることができる。生徒は教科をあきらめたり、単位をもらえなかったりすることはない。 ~ 「上質」に向けて努力できるということ! フィンランドが実践しているのは、まさにこれじゃない?


★ 日本の製造業では、これを導入していないところはないぐらいと言えます。QCサークルというやつです。QCはクオリティー・コントロール(品質管理)です。
  トヨタがWhy? Why? Why?を3回尋ねるというのも有名です。
  学校には、残念ながら1回も尋ねられない文化があり続けています。
  産業界と教育界、いったい違いは何でしょうか?
  同じ、ニホン人がやっているのに。