2016年5月29日日曜日

『算数・数学はアートだ』


今回は『算数・数学はアートだ』(ポール・ロックハート/新評論)を取り上げます。

3章「学校の算数・数学」には、次のような記述があります。
   

学力テストの教科に加えるということであれば、教育体制がその教科の生気を吸い取る、つまり活力を失わせることを実質的に保証したことになります。(38)

 ここだけを読むと、多くの教師がびっくりするかもしれません。当たり前に、学力テストを行っている現状からすると、「何?」という感じです。でも、よく考えてみれば、「算数・数学」に限らず、学力テストの対象になっている教科をつまらないものにしているのは、まさに「学力テスト」を含む教育体制そのものだということに行き当たります。

 著者はさらにこう続けます。

 
数学は理性の音楽です。「数学をする」ということは、①発見と予想、直観とひらめきなどの行為をすることであり、②(まったく何が何だか分からないからではなくて、あなた自身が意味を与えたにもかかわらず、最終的に何をつくり出すのかまだ分かっていないので)混乱のなかに身を置くことであり、③画期的な考えを思いついたり、④アーティストとしてくじけたり、挫折したり、失望したり、⑤痛々しいほどの美しさに畏敬の念を起こさせたり、圧倒されたり、そして⑥生き生きと意味のある形で学べること、です。(40)


 このなかの②にある「混乱のなかに身を置く」ことは自分自身でも経験したことであり、何日も同じ問題を考え続けたことが今思うと数学の楽しさだったように思います。数学それ自身ですでに面白いものであり、「算数・数学」を面白くするために行われている「改革の動き」は悲しいものだと著者は述べています。
   
 数学がつまらないのは、日常生活との関連性が見えないからだという意見がありますが、著者は「日常生活との関連のなさが数学の栄光」「日々の生活における気晴らし」とも述べています。確かに、面白くせよと言われると「日常生活との関連」を考えがちですが、それ自体が面白いものであれば、その面白さが前面に出てくるような学習内容を用意しなければなりせん。

ところが、現実の数学の教科書は、定理・公式の類の解説と、その練習問題の羅列です。

わざわざ算数・数学嫌いを生み出しているというわけです。
   そうではなくて、数学の面白さ、本質的な部分の問題を取り扱えば、子供たちは嬉々として算数・数学に取り組むことができるということです。この指摘は重要です。

 また、最後の「訳者あとがき」でも特に「その3 算数・数学が直面している少人数指導という誤った教え方」は多くの先生方に読んでいただきたいところです。少人数指導で「良いことをしている」と思い込んでいる議員や教育長がいるのは困ったものだという指摘がありますが、まさにその通りです。このようなことを続けていたら、わが国の教育は世界のトップランナーどころか、間違いなく周回遅れです。
 この本に続いて、『Thinking Mathematically(数学的に思考する)』が翻訳されるようですので、期待したい思います。

 

2016年5月22日日曜日

自分を大切にする → 教師以外の自分のアイデンティティをもつ


『校長先生という仕事』は、学校をよくするためのリーダーの役割や具体的にできることについて書いた本です。それを校長に代表させる形で。しかし、教師一人ひとりも、子どもたちや親から見れば、まちがいなくみんなリーダーです。

そのパート3には、下の図のような6つのリーダーの役割が整理されて紹介されています。校長に限らず、先生たちの多くも、管理は突出しているかもしれませんが、他の部分は結構弱い気がしてしまいます。(それが、そもそもこの本を書いたきっかけでした。)それぞれを10段階で評価すると、あなたの6つの自己評価はどんなものになるでしょうか? 下の図に折れ線グラフを書き込んでみるといいかもしれません。


 今回のテーマは、その6つのうちの一つの「自分を大切にする」です。
本の217~8ページに、自分を元気に保つ具体的な方法が、14項目書かれています。そのうちのいくつかを紹介すると:
  ・スケジュールの中に自分の時間を確保する
  ・よく寝る
  ・何か趣味を持つ
  ・友だちとの時間を持つ
  ・すべて自分がしなければいけない、と思わない
  ・自分の限界を知り、受け入れる ~ 己を知る

先日読んでいたある英語の教育雑誌には、教師以外の自分をもつことの大切さが書かれていました。自分を教師以外の、写真家、登山家、料理家、詩人、ガーデニングが好きな人、ペット愛好家、地域活動家・・・・といった別のアイデンティティを持つことの大切さです。それがあることで、いつもいる場である学校以外の空気が吸え、創造力が養われますし、エネルギーを蓄えることもできるからです。そして、人間としての幅や視野が広まります。★さらには、そこから得られた満足(や知恵やスキル)を子どもたちと共有することもできます。

「忙しいのに、そんな時間をどこからもってこれるというのですか?」という声が聞こえてきそうです。
そういえば、2年前に訳した『理解するってどういうこと?』の中でも、自分を大切にすることが繰り返し強調されていましたから、どこの国でも状況は変わらないようです。そしてその中には、たしか、1週間に最低でも90分の自分の時間は確保しましょうという具体的な提案までされていました。★★

教師という仕事は、他人の成長をサポートする=他人の面倒を見る仕事です。それをうまくやるためにこそ、成長し続ける自分=継続してエネルギーを充電する時間の確保をお忘れなく!


★ 視野が狭いままだと、『算数・数学はアートだ!』に書かれていることがすべての教科で起こり続けます。あるいは、http://wwletter.blogspot.jp/2016/05/blog-post_20.htmlに書かれていることが。負のスパイラルを正のスパイラルに転換する機会もなかなか得られません。


★★ いったん好きなことになってしまうと、時間がない、とこぼす人はいません! 時間はつくれてしまいます。それに対して、嫌いなものや必要性を感じない限りは、「時間がない」で済ませるようです。


2016年5月15日日曜日

子どもたちが理解できるように教えるには?



今回は、その第2弾で読むときに使っている理解の方法を紹介します。
読む際に何よりも大切なことは、理解することです。(他に、何があるでしょうか? そういえばありました。楽しむことです!)
誰もが認める理解や解釈とまでは言わないまでも、自分なりの理解や解釈、つまり自分なりの意味をつくり出すことが「読む」ということです。間違っても、すでに存在する誰かがあらかじめ決めた理解や解釈を覚えることではありません。あるいは、すでに存在する意味を与えられることでもありません。主体的に考えて納得した意味をつくり出すことです。
本や記事、あるいは絵や図表あるいはメディア等を理解するときに使っている方法は、以下の7つであるというのが1990年に提示されました。★

     自分や、他の読み物や、世界とのつながりを見いだす。
     イメージを描き出す。
     質問をする
     著者が書いていないことを考える(つまり、行間を読む)。
     何が大切かを見極め、他の人に説明する。
     様々な情報を整理・統合して、自分なりの解釈や活かし方を考える。
     自らの理解をチェックし、修正する。

読書好きな人は、これらを自然に使いこなしています。しかし、日本の国語教育で教わるのは、この中のどれでしょうか?★★ 他の教科でも、教科書を読むときを含めて、これらはすべて不可欠なのですが、教える/教わるでしょうか?

ちなみに、上記の7つの方法を算数に応用した本が、Math Adapting Reading Strategies to Teach Mathematics, K-6  By Arthur Hydeです。関心のある人は覗いてください。

私たちは、読む時だけでなく、書く時も、聞く時も、話す時も、つまりは考える時はいつもこれらの7つの方法を使っています。対象をよく理解するためには不可欠なので。

なお、これら7つの方法を詳しく紹介した本として、『「読む力」はこうしてつける』と『理解するってどういうこと?』がありますので、興味を持たれた方はぜひご覧ください。


★ 私が、小・中学校時代を過ごしたのは、1960年代ですから、残念ながらこれらの恩恵を受けることはありませんでした。でも、いまの子どもたちはしっかり受けているでしょうか?

★★ 学習指導要領を読むと、半分ぐらいしか扱わないことが分かります。それは、日本の国語界がまだこの理解するのに必要最低限の7つの方法を認知していないことにあります。あるいは、依然として「教材中心アプローチにこだわりすぎている」ことが原因のようです。一人ひとりの子どもにとって意味のある読み物を読むことが優先されるべきなのですが、相変わらず「すべての子どもにとって“いい”(と思われる教材)教材」を読んで解釈させることにこだわりすぎています。そんなものなどあるはずがないのに。あなたは、目の前にいる子どもたちをより大切にしますか? それとも、権威があると思われている教科書をカバーすることをより大切にしますか?


2016年5月8日日曜日

「教え方のプロによる1週間の訪問指導」という教員研修


で、「1週間のresidency」というアプローチがあることを紹介しました。

そもそもは、「アーティスト・イン・レジデンス」★から来ています。この言葉で検索すると、その由来と日本での現時点でのやられ方がわかります。しかし、私が言っているのはそれの学校バージョンです。欧米の学校では、図工・美術、音楽等が正規の時間割に含まれていないところが少なくなく(従って、それらの専科の先生もいない場合があり)、それをカバーするためにプロの画家、音楽家、ダンサー等を短期間(たとえば、1週間とか2週間とか)招いて教えてもらうというプログラムが数十年前から存在するのです。

おそらく、RW便りで紹介した「1週間のresidency」=読み・書きの教え方のプロによる1週間の訪問指導は、そういう長年の他教科での実践も踏まえて考えられたのだと思います。気になったので、調べたことを紹介します。

Regie Routman(レジー・ルートマン)さんの場合は、それだけでなく以下のようなことも踏まえて自分の1週間のレジデンシー(滞在)プログラムを開発したというのです。

・彼女自身の過去40年を超える読み・書きの領域での実践の蓄積(かなりの量の本も書いています!)
・読み・書きの過去50年間の研究と実践の蓄積 ~ それらのエキスを、RW便りで紹介し続けています。
・最適な学びの条件について理解★★。具体的には、
     本物であること=意味のある学び(これだと楽しめますし、身につきます) ~ 逆に、子どもたちは「学校ごっこ」はすぐに見抜いてしまいます!
     自立的な学び手を育てるための教え方 ~ 子どもたちが「自分のもの」と思えることの大切さ。と同時に、教師がモデルを見せるところから、サポートして自立するところまでをステップを踏んで伴走することの大切さ。  (ここに興味のある方は、『「読む力」はこうしてつける』の65~68ページを参照してください。)
     モチベーションとエンゲイジメント ~ これら2つのキーワードもこのブログで扱ってきました。これらは子どもたちの学び(出来・不出来)に直結する重要な要素です。
     成功が約束されている授業の枠組み ~ たとえば読み・書き教育の例としては、RW便りで紹介しているリーディング・ワークショップやライティング・ワークショップです。
     教室で使われている言葉 ~ 教師が、そして子どもたち同士が日々使っている言葉は、何をどう学ぶかだけでなく、関係性も規定します。★★★
・教員研修についての理解 ~ これは、日本においては残念ながら止まった状態が続いています! 研修が停滞していますから、必然的に授業も停滞しています。
     Professional Learning Community=プロの教師として学び続けるコミュニティ(PLC)のあり方 ~ アメリカを中心に過去20年ぐらいの実践と蓄積があります。それに刺激を受けて、このブログをスタートさせました。教師が互いにサポートしあって成長していないのに、子どもたちの学びや成長を実現するのはかなり困難なことですから。
     よりよい学びを可能にする教え方を常に模索し続けるリーダーとしての校長 ~ これは学校改革を常に推し進める校長と同義で、上記のPLCのリーダーでもあります。これをテーマにして書いたのが『校長先生という仕事』でした。
     コーチング ~ このブログでも何回か紹介してきたNHKの人気番組「奇跡のレッスン~世界の最強コーチと子どもたち」と似ているところがあります。
・評価と指導の一体化(=学びを促進するための評価)に関する過去20年ぐらいの実績 ~ 日本もかけ声だけはありますが、実態が伴っているとは残念ながら言えません。これをテーマにして書いた本が『テストだけでは測れない!』でした。

 ということで、どういうふうにすれば、教師の実践が改善されていくかということをしっかり考えた上で、行われているのがこの1週間のレジデンシーということになります。それは、「奇跡のレッスン~世界の最強コーチと子どもたち」を見ても、インパクトの大きさは分かると思います。単に対象が子どもたちではなくて、教師たちに置き換えられただけです。
 しかも、二度と会わないという関係ではなく、フォローアップがありますし、2~3年の単位で取り組むところがほとんどです。1週間で変われるとは誰も思っていないので。そして、年間を通して(毎週)教師同士が互いにサポートし合う関係まで構築されます。
 要するには、しっかり教師の実践を変えるためには何をどうしたらいいのかを練った上でのプログラムと言えます。
 これと比較すると、日本で行われている学校レベルの各種研修・研究や教育委員会や教育センター主催の研修(さらには、大学や大学院等で行われている免許更新制関連の研修や内地留学等も)は、ほとんど最初から授業実践を変えることを目標に設定にしているとは言えないことが明確になってしまいます。いったい何を目標に設定しているのでしょうか?


★ アーティストよりも、広く知られているのはお医者さんたち(の卵)のresidencyです。しかし、この場合は研修医と称して、本物の医者になる前段としてのトレーニングのことを意味します。「インターン」と同じです。従って、ここで扱っているテーマとは異なります。
★★ 健全な教育実践を行うために私たちがすでに知っていることと実際にしていることのギャップがどれだけあるのかを示した表が最近出た『算数・数学はアートだ!』の182ページで紹介されているので参照ください。

2016年5月1日日曜日

改めて「学ぶ」ということについて考えたこと


O先生が退職したのを期に、書いてくれました。

 定年退職という人生の節目の年を迎え、改めて「学ぶ」ということについて考えてみた。私自身が、学ぶことの楽しさを最も強く感じたのは、自分自身で希望して、時には身銭を切って、あるいは平日の夜や休みの日に自分自身で時間をつくって研究会や学習会・勉強会に参加したときであった。もちろん、いわゆる悉皆の研修会や講演会などでも、考えさせられたり、新たな発見や気づきがあったりしたこともあったが、自分の意思で希望して参加した研修会での学びに勝るものはなかったと考えている。
 このことは、「学ぶ」ということの本質を表現している。すなわち、学びの主体者は、学習者自身であり、学ぼうという意思、学びたいという意欲が重要であるということである。「主体的で、能動的な、探究的で、そして協同的な学び」こそが、「学習」であり、「学ぶ」ということなのである。
 特に、私自身が教師として、あるいは人として大きな学びを得ることができたものを挙げてみる。A科学教育財団の東日本特別研修会(23日)、環境学習のプログラムProject Leaning Treeのファシリテーター養成研修会(23日)、民間の理科教育の研究会の夏合宿(12日)、B県教育委員会の新教育相談講座(年7回開催で2年間)、C大学の大学院生や学生によって運営されていたカウンセリング研究会(毎週水曜日の夜開催)、大学の学校心理学の研究室でのSchool Psychology Handbookの輪読会(2週間に1回の開催で2年間)、学校心理学の研究会での学習会(年78回開催)、構成的グループエンカウンターの宿泊研修会(23日)、B県長期研修生(教育相談)としての1年間(大学・大学院への内地留学)。
以上の研修会や研究会、学習会などへの参加は、およそ1990年から1994年までのわずか5年間のことである。
それでは、この時期とそれ以前の教員生活とではいったい何が違っていたのか。それは、「時間の使い方」と「行動範囲を広げたことによる様々な人との出会い」である。私は、公立中学校の教師となり、理科の教科担任として理科の授業を担当し、学級担任として不登校の生徒や非行傾向の生徒にもかかわり、そして、放課後や土曜日、日曜日は、野球部の顧問・監督として部活動の指導をしていた。
教師としての1日の生活は、朝715分からの部活動の朝練習の指導に始まる。その後、朝の会、授業、給食指導、清掃指導、帰りの会と続く。放課後の部活動の指導が終わり、下校指導を済ませると、夕方6時頃から教材研究や校務分掌上の仕事・事務処理などを行う。毎日、学校を出るのが夜8時過ぎという生活を送っていた。もちろん、土曜日の放課後や日曜日は、野球部の練習や大会引率でほぼ1日が終わる。
教師としての研修・学ぶ機会は、市や県の教育委員会主催の悉皆研修会、市の教育研究会の研修会、自分が希望して参加できる年に34回程度の県教育委員会主催の研修会、そして、校内研修会であった。研修の機会・回数は、多かった。しかし、内容や質的な面では、千差万別、玉石混交であった。やはり、自分自身の「学びのニーズ」にマッチするものは、少なかった。さらに自分の学びのニーズを満たすために、自ら学校の外に出て、「学ぶ」機会を積極的に得よう、広げようという時間的なゆとりはなかった。というより、心の余裕もなかった。
1989年に、同じ市内で学校規模が半分ほど(学年5学級)の中学校に異動となった。教師としての生活は、それまでとほとんど変わっていなかったが、中学校の教員として10年近くになり、また、市の郊外で落ち着いた雰囲気の学校であったこともあり、心のゆとりも生まれた。さらに、異動後2年目から、「学年主任」という中学校の教員としては最もやりがいのある校務分掌を担当することになり、自分自身の「学ぶ意欲」が高まっていった。
部活動は、野球部の監督として、それまでと同様、朝から放課後、土曜・日曜とほとんど休みなく指導にあたっていた(市の野球専門部長としての役割も担っていた)。
しかし、精神的な余裕が生まれていたことにより、土曜日の午後や日曜日に行われる研修会や学習会に参加するために、部活動を休みにしたり、二人態勢のときには、もう一人の顧問に部の指導をお願いしたりしたのである。そのために、部活動の計画(練習日程や練習試合の予定)を2ヵ月~3ヶ月単位で早めに立てて、部員と家庭・保護者に知らせるようにした。時には、研修会・学習会に参加するため、1週間前になってから急遽、土曜日の練習を中止にしたりしたこともあった。もちろん、子どもたちには、「学習会に参加して、教師としての勉強をするために、練習をなしにしてくれ。頼む。」と正直にお願いをするのである。ほとんどの子どもたちは、自分の時間が増えるので、喜んで私からの申し出を受け入れてくれた。

このように、自ら研修・学びのための時間を創り出し、研修会・学習会に参加することによって、新たな「気づき」と「学び」が広がった。同時に、様々な人々との新たな「出会い」が生まれた。そして、新たな人々との「出会い」を通して、さらなる「学びのためのネットワーク(人や学びのための情報とのつながり)」が生まれていったのである。