2017年8月27日日曜日

指導と評価の一体化


この言葉を最初に聞いたのは、もう30年くらい前でしょうか。
まだ教職経験5年くらいのときの研修会で聞いたことを覚えています。     

そんな昔から言われている言葉ですが、今でも「不易」のこととして、教育書でもたびたび取り上げられています。「指導」をすれば「評価」は当たり前ですが、案外日頃の授業の中では実現できていないことの1つです。
   

教育実習で学生の授業を参観に行くと、「どこで評価したの?」と聞くと、学生からは「指導案には書きましたが、できませんでした」「自分ではやったつもりですが」という返事が返ってくることがあります。「指導」に手一杯で「評価」まで手が回らないというのでは、その時間のねらいが本当に達成できたかどうかわからないわけですから、はなはだ心もとないことです。ここでも、教師が主体の学習を続けている限りは、評価まで手が回らないということがわかります。子供主体の学習に切り替えていけば、教師はその分子供たちの評価に力を注ぐことができるわけです。
   
  
また、改訂された学習指導要領の重点のひとつである『知識の理解の質を高め資質・能力を育む「主体的・対話的で深い学び」』を実現するためには、評価が重要になってくるのは当然です。そこで、真正評価と呼ばれるパフォーマンス評価が注目されています。これらの評価については、『Understanding by Design(G.Wiggins)が何と言っても名著です。その翻訳本『理解をもたらすカリキュラム設計』(西岡加名恵・訳/日本標準2012)がありますが、定価6,480(税込)は高すぎますね。図書館等で読む機会があればいいのですが。 

同じ西岡さんの『パフォーマンス評価で生徒の「資質・能力」を育てる』(学事出版2017・定価2,160(税込))は実践事例も掲載されているので、わかりやすいと思います。まずこの本から「パフォーマンス評価」について学び始めるのがよいかもしれません。
   

いずれにしても、良い教材、良い指導法を授業で用いたとしても、評価がいい加減ではねらいとする目標に達することはできないでしょう。常に、指導と評価は一体であることをこの機会にもう一度確認しておくことが大切なことだと思います。

2017年8月20日日曜日

「忙しい」は「達成感/充実感」をもたらしてくれるか?


 忙しいことは、一般的にはいいことと捉えられています。(少なくとも、悪いこととは捉えられていません。)
 私たちの日常的な挨拶で「忙しい?」は頻繁に使われ、それを当然視しており、「いや、暇です」と答える人にお目にかかったことがありません。
 しかし、
「忙しいだけで満足してはいけない。大切なのは「何で忙しいか」だ。」
      ヘンリー・デイヴィッド・ソロー★

日々の忙しさに流されるだけだと、なかなか達成感や充実感は味わえません。

時には、「なぜ」の質問を自問することが大切です。
・なぜ、教師になったのか?
・なぜ、この仕事をしているのか?
・なぜ、小学校(中学校・高校・大学・・・)教育に価値があるのか?
・なぜ、自分の授業には意味があるのか?

同時に、習慣的にしていることを問うことも大切です。(達成感を味わうためにも。)
習慣は、それなりに価値があるから習慣であるわけです。しかし、時と共にその価値も変わり、習慣にも変化が求められたり、場合によっては習慣を葬り去ったりする必要すらあります。★★

これは、個々人がすることも大切ですが、教員集団として取り組むことも大切です。
単に忙しいだけであり続けないために。
自分たちがなぜ忙しいのかを確認するために。

職業柄(というか、単に習慣として?)「いいえ」とは返事できない状況に置かれているのが教師という仕事かもしれません。(こじつけも含めて)子どもたちの学びに寄与すると言われたら、否定しづらいですから。しかし、すべてを受け入れていては、本来力を入れてしっかりやりたいことも、おろそかになってしまいます(というか、いい加減にやらざるを得なくなってしまいます)。それは、避けなければなりません。

要するには、忙しい状態というのは、言葉を換えて言うと、優先順位をもたない(=自分をもたない/思考停止)状態、と言えるかもしれません。その状態で、よい教育を提供することは可能でしょうか?

限られた時間の中で生きているので、何を大切にしたいかの優先順位を明確にしないと、「何でもするけど、何もしていない」状況に陥ってしまいます。(というか、すでに陥っています。)
そうではなく、「すべてはやらないけれども、いくつかは確実にやる」方が大切だということです。

あなたは何をもって記憶されたいですか? 「頼まれたことは断らずに、何でもやる人」ですか? それとも、「自分の大切なものを確実にやる人」ですか?
その違いは、自分の価値や優先順位をもっているか否か、です。

「忙しい、忙しい」とばかり言わないで(結果的に、何に取り組んでいるかや、何を達成できたかの説明もままならない状態を続けるのではなく)、「意味があり、建設的なことに取り組んでいる」日々を送りたいものです。

やりたいことをしている人は、「忙しい」とは言いません。(したいことができているのですから、忙しいはずがありません!)

今回のテーマにピッタリの本があります。それは、『好奇心のパワー』(キャシー・タバナー他著、新評論)です。本全部が役立ちますが、あえて言えば、特に第5章と第6章です。
私たちは、図3から図4に移行しなければなりません。
まだ、秋学期があまり忙しくならない前に、ぜひ読んで、自分の「価値観を明らかにし、確認」したり、自分の「望みを理解」したり、自分の「望みと価値観を支援する限度を設定」したりしてください。これらができないと、図3が続くことが約束されますから。




★ 今回は、このヘンリー・デイヴィッド・ソローの引用から、すべてが始まりました。これは、いま翻訳を進めているナンシー・アトウェルのIn the Middleの第4章の冒頭で使われていました。In the Middleの内容については、http://wwletter.blogspot.jp/search?q=in+the+middleで度々紹介しています。





2017年8月13日日曜日

カリキュラム・マネジメントがどういうことか分かる本


『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ ~ 「違い」を力に変える学び方・教え方』の第5章までを読んだ、綾瀬市の小松先生と横浜市の冨田先生がメモを送ってくれました。これらを読むだけでも、いま多くの学校が取り組んでいるカリキュラム・マネジメントでも、この本が役立つことがわかります! (第6章以降は、それを授業で具体的にどう実現するか=多様な教え方が書いてあります。)

A
カリキュラム・マネジメント、どの学校でも(?)始まっているんじゃないかと思います。

カリキュラムは、学年の年間計画として、ほぼ教科書通りに並べたものに過ぎませんでした。
でも、進度を揃えるための、よりどころとして、無視できないもの、と言う感じかなと思います。

私にとっても、そうです。と言うか、そうでした。
でも、『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』を読んで、カリキュラムは、ただ、単元名を教科書通りに並べたもの、
と思っていてはいけないと、思いました。

カリキュラムは、教材名(単元名)を並べるのではなく、(いや、並べてもいいんだけど)、
学ぶべき「事実」「概念」「原理」を計画的に配置し、教科横断的に、地域素材(人材も)を効果的に活用するものだと
思いました。

勤務校では、校長が中心となって、カリキュラム・マネジメントに今年度取り組んでいます。
勤務校の実態を良さも課題もみんなで出し合い、把握し、
児童に身につけさせたい力を学校全体で共通理解しました。
その上で、今、教科横断的に、地域を活用しながら、これまでの学年年間計画を見直しているところです。

しかし、このカリキュラム・マネジメント、なんか、私自身、しっくりこないな〜と思っていました。
最近、10年研(今年から中堅研と言う)で、カリキュラム・マネジメントを実際にやってみるという演習をやってきましたが、
その時もなんか、しっくりこなかった。
その違和感は、上記したような、「学ぶべき「事実」「概念」「原理」を計画的に配置し、教科横断的に、地域素材(人材も)を効果的に活用するもの」と言う視点が抜けていたからだ〜と気がつきました。

この題材とこの題材が似てるから、この題材で使うこの道具や素材がこっちの教科のこの題材で使えそうだから、
と言う、なんだか、上っ面だけをすり合わせている会話ばかりだったのです。
大事なのは、P90〜92に書いてあった、「学習レベルの典型」というところの、P91中盤「それに対して、ある別の教師は」以降に書かれている部分なんじゃないかと思いました。
「ある別の教師は、理科の四つの鍵となる概念、つまり、変化、パターン、システム、そして相互関係を中心に据えて、1年間の計画を精密に立てました。」★
これこそが、カリキュラム・マネジメントじゃないかと思いました。

このレベルでちゃんとカリキュラム・マネジメントは取り組まないと、意味がないんじゃないかな、と。
年間計画の教材名とにらめっこするだけではダメで、その裏側にある、「事実」「概念」「原理」を基本としてカリキュラム・マネジメントすることが最も大事なんじゃないかと。 


B

カリキュラムの捉え方を、自分の学校と『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』の中に出てくる学校を比べて考えています。5章まで読んできて、カリキュラムの捉え方が今の自分や学校にとって大切だと思うからです。

 うちの学校にとって、カリキュラムとはまさに子どもが通るべき道です。カリキュラム通りに授業ができた方がいいという価値観があると思います。もちろん、一斉指導において、その通りに進まないのですが(カリキュラム通りに一斉指導で進めてしまう先生は、子どもを大切にしていない先生と言っていいと思います。)できるだけ、子どもの実態がどうあれ、カリキュラム通りに行いたいという気持ちが強いです。

 
『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』の中のカリキュラムは、基本の道で、実はこの通りに学ぶ子どもはほぼいないという前提で作られてるように思えます。内容、方法、成果物を構成して、意味のある学習になる目標設定や構成を作るための支援ツールといった感じでしょうか。大切なことは、教師がカリキュラムをたどるようにして教えることが大切なのではなくて、子ども一人ひとりに応じて、カリキュラムをもとに学習内容、方法、成果物を適応させて、子どもたちがいちばん能力を発揮できる学習にするということです。
 カリキュラムがないと、一人ひとりを生かす授業の収拾がつかなくなり、目標も評価も意味のないものになってしまいます。子どもたちがたくさん頑張っても、結果的にまったく違うことを学んでしまい、目的と違うものが学べなかったり、教師がほぼ子どもたちの活動を把握することができなくなったり、よいカンファランスができなくなったりするかもしれません。結果的に、子どもたちはがんばったのにもかかわらず、よい最終評価がもらえないで、がっかりするようなことになるかもしれません。 
子どもたちが、いろいろな学習を展開するからこそ、学習の方向性を示すカリキュラムが必要ということでしょう。

 うちの学校の場合、学習の優先順位は、「一人ひとりの学習 < カリキュラム」に近いのでしょう。だから、カリキュラムに追い付かない子は、支援の必要な子というレッテルを貼られてしまう。本当は、学校や教師の教え方、考え方、捉え方がよくないのに。
 
『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』の学校の場合は、「一人ひとりの学習 > カリキュラム」なのでしょう。カリキュラムは、子どもにとっても、教師にとっても、一人ひとりの学習を迷わないで進んでいけるための、地図でもある。やっぱり大切なのは子ども個人。学習が伸びない子は、その子の実態に合わない教え方、学び方、内容など、なにかに問題があり、教師・学校・子どもみんなで改善をしていく状態にある子という意味なのでしょう。

 僕自身の問題ですが、学校のカリキュラムに、自分のオーナーシップを感じていません。ただそこにあるもの、という軽薄な認識です。自分から改善しようとか、もっとよいものを提案しようとか、そういう気持ちは薄いです。  

 第5章に登場するジョンソン先生は、神話の授業を担当しています。ジョンソン先生は神話の授業を通して、どのような内容を生徒に学ばせたいか(鍵となる概念・基本的な原理・関係のある態度やスキル・必要な知識)は明確です。また、それを身に着けさせるために、どのような活動を開発すればいいか、内容や方法、成果物などの具体的な選択肢や選択できる幅について考えています。最終成果物の必要条件も明確に設定しています。 
  決して、子どもたちを好きなように無責任に学ばせているわけでもなければ、子どもたちから責任を取り上げて自分の管理下のもと学びを強制しているわけでもありません。意味のある学びに到達できるように、教師が選択肢や選択の幅を設けて、子どもたちが学習に責任を持てるように校正しているのです。
けれど、第5章のジョンソン先生からも感じますが、カリキュラムは他の誰でもなく、教師自分自身の責任のもと、大切に扱われ、改善に改善を重ねて磨かれていくものというイメージです。それが、僕を悪い代表とする日本の学校の先生と大きく違う。そば職人が創業以来継ぎ足し継ぎ足し引き継がれているスープのイメージ。伝統工芸の職人が、毎日研ぎ澄まし洗練させていく道具のイメージです、僕が、そういう自分の責任のもとで大切に磨き上げているカリキュラムを持ててなく、どこかの誰かが作ったカリキュラムが、いつも机のいちばん下の引き出しにしまわれているのは、問題ですね。子どもはもちろん誇りに思っている。指導法もある程度身に付けている。けれど、これが私の大切にしているカリキュラムですという責任もったカリキュラムがないと、本物にはなれないような気がします。


★ この部分をもっともよく表しているのが、いい学校や授業のつくり方が書いてある『いい学校の選び方』(中公新書)の127~130ページです。もし、それを一冊の本で読みたければ、『ひみつの山の子どもたち』富山和子がお薦めです。



2017年8月6日日曜日

学級担任制と小学校教育


 私は、これまで、限られた地域ですが、7校の中学校と3校の小学校に勤務してきました。今回は、私の経験を通してみた「学級担任制」をとる小学校教育の良さや特徴、課題とその改善案について、改めて考えてみました。 

小学校教育のきめ細やかさと学級担任の責任の重大さ、多面的で総合的な子ども理解

 小学校教育は、中学校教育に比べ「きめ細やか」です。授業の進め方や板書の文字、教室環境・掲示物、言葉遣いなど、中学校と比較すると小学校の方がより丁寧です。 

また、公立小学校では、ほんの一部の国立大学の附属小学校を除いて、「学級担任制」をとっています。朝学習・朝読書を含め、朝の会から授業、給食指導、清掃指導、帰りの会、そして下校指導まで、一人の学級担任が、1日のほとんどの時間を子どもたちと一緒に過ごし、彼らの学校生活に深く関わっています。授業も、一人の学級担任が、音楽などの一部の教科を除き、すべての教科と道徳、学級活動などの授業を担当します。 

そのため、子どもたち一人一人の学力や個性、社会性の伸長など、学級担任が子どもたちに及ぼす影響ははかり知れません。この意味で、学級担任の責任は極めて重大です。 

学級担任が、子どもたち一人一人について、授業やそれ以外の活動場面といういくつもの窓から「多面的」に見て「総合的」に深く理解することができるのが、学級担任制の良さだと思います。学習指導に関しても、一人の先生がいろいろな教科を教えるので、教科相互の関連に基づくカリキュラム・マネジメントもやりやすいですし、教科横断的な総合的な視点をもちやすいという良さ・特徴もあります。 

小学校現場の人的配置の少なさと忙しさ

しかし、学級担任に極めて重大な責任を果たすことが求められているにもかかわらず、小学校の先生方の学校生活は、休憩時間にゆっくりとお茶を飲んだり、トイレに行く時間もなかなかとれなかったりするほどの超過密スケジュールなのです。 

 公立学校の場合、国の「学級編成及び教職員定数の標準に関する法律」★によって、学級編成の基準や学級数に対する学級担任以外の「加配教員」と呼ばれる教員の数が決められています。小学校は、中学校や高校に比べて、この加配教員の数が圧倒的に少ないのです。 

都道府県によって異なりますが、私が勤務した地域では、例えば、各学年3学級、全校で18学級の規模の小学校と同じ規模の中学校を比較した場合、どちらも、副校長または教頭が1人、学級担任が18人、養護教諭が1人います。違いは、学級を担任しない教員の数です。小学校は2人(教務主任と音楽専科)しかいないのに、中学校は10人います。教務主任と学年ごとに3人ずつ計9人の「副担任(学年担任)」がいます。このような教員数の違いにより、小学校では、1日の中で、職員室に誰も教職員がいなくなる時間があるくらいです。 

中学校では、授業を担当しない時間いわゆる「空き時間」が、1日に1~2時間程度あります。しかし、小学校では中学校のように「副担任(学年担任)」がいないため、朝から子どもたちが下校するまで、学級担任はほっと息をつく暇もないほど忙しいのです。 

■協同実践と情報共有による学級王国的な閉鎖的意識の打破

中学校は「教科担任制」をとっています。中学校教育の基本は、「学年主任を中心としたチームワークによる連携・協同」です。中学校では、学年職員から構成される「学年チーム」によって、生徒指導・学習指導、林間学校や修学旅行などの学校行事の企画・運営が行われます。学年主任には、学年経営に対してリーダーシップを発揮することが強く求められます。 

 しかし、小学校では、自分の学級や学年を越えて学習指導や生徒指導を行う機会が、それほど多くありません。そのため、小学校の先生方は「学級王国」と表現されるような閉鎖的な意識になりやすいのです。小学校は「学級担任制」と「人的配置の少なさ」という組織的制約によって、目の前の学級の子どもたちにかかわることが精いっぱいで、他のクラスや他学年の子どもたちに目を向ける余裕がなく、現実的に「チーム」で協力して動くことが難しいのです。 

 この学級王国的な閉鎖的な意識を打ち破るためには、学年あるいは低・中・高学年の学団による次のような「協同実践」が有効だと思います。

1.学年によるカリキュラム開発と共通実践、カリキュラム評価を行う。

2.学習指導および生徒指導に関する情報共有を週に1回行う。 

 1については、先月のPLC便りで紹介した『たった一つを変えるだけ』[新評論]や『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』[北大路書房]、『教科と総合学習のカリキュラム設計』[図書文化]などを参考にしながら、学年の先生方が協同で、自分たちの学年の子どもたちの興味関心、レディネス、学習履歴などの実態に応じた教科や総合的な学習の時間のカリキュラムを開発し、共通実践、評価を行うのです。もちろん、すべての教科でこれを同時に行うことは現実的に難しいでしょうから、例えば、次の①~⑨のような順番で取り組んでみたらどうでしょう。挑戦してみたい方には相談に乗りますのでpro.workshop@gmail.comへご一報ください。 

①【1学期ⅰ】学年として、この取り組みをやってみたいと思う教科と単元を一つ選び、協同してカリキュラム開発、共通実践、評価を行う。

②【1学期ⅱ】学年の取り組みについて、学年会においてふりかえりを行い、成果と課題、疑問点などを明らかにしておく。この一連の取り組みについてA4用紙2ページにまとめ、他学年に情報発信する(他学年の先生方からフィードバックをもらうために、レポートの最後にハガキの1/3程度の小さな欄を設けておく。さらに、校長先生と研究主任にお願いをし、夏休みの校内研修会の中で時間をもらって、学年の取り組みについて、全体に報告を行う)。

③【夏休み】1学期に学年で取り組んだ経験を基にして、それぞれの学級担任が、2学期に取り組む教科と単元を選び、評価項目、評価基準、評価方法を含めたカリキュラムの原案を作成する。各学級担任が作成したカリキュラム案について、学年で検討し、実践可能なものに仕上げる。

④【2学期ⅰ】夏休みに作成したカリキュラムに基づいて、それぞれの学級で実践する。

⑤【2学期ⅱ】各学級で実践した取り組みについて、ふりかえりを行い、成果と課題、疑問点などを明らかにする。この一連の取り組みについてA4用紙2ページにまとめ、学年内での実践交流・意見交換を行う。また、他学年にも情報発信する。

⑥【冬休み】1・2学期での取り組みを基にして、各学級担任が3学期に取り組む教科と単元を選び、評価項目や評価歩基準、評価方法を含めたカリキュラムの原案を作成する。

⑦【3学期ⅰ】各学級担任が作成したカリキュラム案について、学年で検討し、実践可能なものに仕上げる。

⑧【3学期ⅱ】作成したカリキュラムに基づいて、それぞれの学級で実践する。

⑨【3学期ⅲ】⑤と同じ 

 2については、週に1回40分以内の学年会または学団会を開き、特に「気になる子ども」の学習面や生活面に関する情報共有を行い、援助方針を立てたり、具体的な支援策について話し合ったりするのです。できる限り管理職にも同席してもらいましょう。学級担任を孤立させないためにも大切なことです。 


★  「学級編成及び教職員定数の標準に関する法律」は、60年近く前に作られたもので、その後も学級編成に関する部分は、50人学級→45人学級→40人学級と改正されてきましたが、「加配教員」については、ほとんど変わっていません。特に、現在の小学校の状況にマッチしていないと思います。「一人ひとりの違いをいかす教え方」を実現するためにも、小学校の加配教員の数を、中学校水準近くに引き上げる必要があると考えています。