2017年9月24日日曜日

教科の本質を追究する授業づくりとは


授業のなかの活動の一つとして「話し合い活動」があります。今回改訂の学習指導要領のポイントの一つである「対話的な学び」を具体化する手立ての一部です。

 そもそも「話し合い活動」が授業のなかで行われる理由は何かと言えば、自分だけではなかなか思いつかないことへの気づきや、思い込みによる考え違いの修正などが可能になることでしょう。
   
 このようなことは何も授業だけではなく、私たちの日頃の仕事のなかでも経験することです。先日、ある調査研究のための研究推進会議に参加していて、多様な経歴や経験をもつメンバー間の交流によって、研究の具体的な方向性が見事に一つの方向に収斂していく様子を見ていて、話し合いの真価を見た気がしました。あるメンバーによる提案に対して、別なメンバーの意見によって異なる視点から光が当てられ、さらに深められていく。このような繰り返しが思考を深めていくことなのでしょう。授業においても、子供同士の発言のなかで、異なる考え方がぶつかり合ったり、混ざり合ったりすることで、一人では到達できないような深みのある、ものの見方にたどり着けばしめたものです。
    

『アクティブ・ラーニングを超える授業』(石井英真編著・日本標準2017)には、その点で参考になる授業実践例が紹介されています。

秋田大学教育文化学部附属小学校の髙橋健一さんたちの「土地のつくりと変化を調べよう」(6年理科)の授業では、自分たちの学校が立っている土地がどのようにしてできたのかを推理小説を読むように推論を重ねていき、新たな問いや仮説を生み出していくというダイナミックな展開になっています。これなら子供たちは探究活動が楽しくて仕方ないでしょう。

おそらく、この単元の教材研究を教師たちが進めていく過程で、教師自身が追究の面白さを感じながら、関係する教師たちで知恵を出し合いながら、準備をしたのだと思います。

それが見事に子供たちの学びに伝播して、深い学びを創りだしたのだと感じました。
     

この単元の教材づくりでは、『秘伝・森田和良の理科教材研究ノート』(森田和良・学事出版2012)にもよいヒントがあります。教科書にある地層の堆積モデルを作るのに、室内で水槽を利用して行うモデル実験では理科室が水や土砂で汚れたり、結果確認まで時間がかかりすぎたりなどの欠点があるので、それを克服するために、ペットボトルや透明ホースを代わりに使用すると、うまく堆積モデルができることが紹介されています。このような先行研究も利用させてもらいながら、授業づくりに取り掛かるとよいと思います。
     

米国・スタンフォード大学のリンダ・ダーリング-ハモンド編著の『パワフル・ラーニング』(北大路書房2017)の「第4章 理解を目指した理科の授業」にも、「データ収集者としての児童」が紹介されています。ワシントン州のウォータービル小学校のダイアン・ピーターセン先生のクラスでは、理科の時間に3センチの角をもつトカゲ(学名・サバクツノトカゲ)を研究対象として、子供たちがこのトカゲを発見した場所を地図上にマッピングしたり、寒い冬の期間をどのように過ごしているのかを観察したりし、そのデータを集めました。

この研究は学校だけでなく、地域の人々にも加わってもらいデータの収集に努めているようです。そして、その結果をまとめたものを本物の科学関係の学会に持ち込んで発表するなど、まさに真正の学びが展開されています。

決して学会に参加するから素晴らしいのではなく、その学問領域の専門家が知を探究する過程を追体験し、「本物の科学者」になって、教科の本質を子供とともに深め合う授業がなされているから素晴らしいのです。
     

せめて学期に1つくらいはこのような本物の学びを実現したいものです。

2017年9月17日日曜日

学校に充満しているゆがんだ「平等意識」


 生徒たちには同じ教材を使って、同じことを教えないと、不公平である、という価値観が教師には根強くあります。これは、一つの教室内でも、学年でも存在します。
この辺について、ある先生の言葉を借りると、次のようになります。「クラスごとに違う課題は出せないし、クラス内のグループで違うこともやれないという状況があります。」

 いったい、平等に扱うとはどういうことなのでしょうか?

 まったく同じものを教えて、出た結果(つまり、生徒がつくり出した点数)が違った場合は、それは生徒の責任なので、教師は公平かつ平等に扱ったと言えるのでしょうか?

 私たちは、テストや成績の正規分布(ベルカーブ)を受け入れてしまっていいのでしょうか?

 学習の目標を掲げ、それに応じた評価規準も設定し、授業をした結果、それらを得られていない生徒(点数的に低い生徒)がいた場合、それでも教師は生徒たちを公平かつ平等に扱っていたと言えるのでしょうか?

 それとも、学習目標(と評価規準)を達成させるように、教え方や扱う教材を変えたりすることが、教師が公平かつ平等に生徒を扱うことでしょうか?

 『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』は、たくさんの参考になることを提示してくれている本ですが、そのもっとも顕著なものの一つは確実に、この公平・平等観に関するものです。

 すべての教師は、子どもたちは異なるレディネス、興味関心、学習スタイルをもって教室にやってくることを知っています。
 しかし、教える際にはそれらの違いは無視されがちです。あたかも、みんな同じところからスタートし、同じ興味関心をもって、同じ教え方に合わせた学び方をもっているという前提にすり替わってしまいます。★ それは、いいことなのでしょうか? 誰にとって、いいことなのでしょうか? 教えやすい教師にとってでしょうか? それも教科書をカバーする形の一斉授業という方法で。

 違うことを認めたところからスタートしないで、公平と平等は達成できるのでしょうか?

 以上のことについては、『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』の、特には第3章に書かれていますのでご覧ください(もう一度読み直してください)。

 日本の教育界に充満しているゆがんだ「平等意識」は、教え方として教科書をカバーするアプローチが唯一ベストのものなんだという誤った方法に固執してしまうことにもつながっています。
 そして、それは、常に学び続けていないといけない教師から、学ぶことを奪い去ることにまで発展しています。
 日本の出版界では長年語られ続けていることの一つに、「教師ほど本を読まない人種はいない」というのがあります。教師向けの本は、企画としてもっとも成立しにくいのです。売れないことがわかっていますから。
 なぜ、教師は本を読まないか?
 いろいろな理由はあります。忙しいから、というのもあります。確かに、やらなくてもいい仕事をたくさんやらされていますから、多忙です。しかし、同じように忙しいビジネスマンたちは、結構読んでいます。ビジネス書は売れます。新しい知識やノウハウを注入し続けることは、ビジネスマンにとっては成功するか失敗するかの分かれ目ですから、たとえ忙しくても、読み続けるのでしょう。
 それに対して、教師にはその切実感はありません。何といっても、教科書をカバーしていれば、それでいいのですから。本を読む必然性が、どこにもないのです。
ということで、なんと、ゆがんだ「平等意識」は、教科書をカバーする教え方をはびこらせ、結果的には本を読むことを含めて学び続けることのできない教師までうみ出しているという構造になっています。見事と言わざるを得ない悪循環の出発点に、ゆがんだ「平等意識」があるのですから、とても恐ろしいです。

 この悪循環を断つには、必ずしもゆがんだ「平等意識」を改めるところからスタートする必要はありません。(それが、教育界の文化ないし、日本の文化といえる状況ですから、容易なことではありません!)教科書をカバーする授業から抜け出すところからでも(『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』には、そのためのアイディアが満載です。別に「教科書を無視しろ」と言っているのではありません! あくまでも、いろいろな教材の一つという扱いです!)、本を読むことも含めて、日本の教育界ではなかなか入手できない情報を入手することからスタートすることもできます。

  その一つとして、『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』の内容紹介ばかりになりましたので、少し経路の違う情報の紹介を。
 http://projectbetterschool.blogspot.jp/2017/03/blog-post_19.html で紹介した3番目の本が、今週出ます。『PBL 学びの可能性をひらく授業づくり』L.トープ S.セージ ()です。http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784762829925


★ この例外が、少人数能力別のクラス編成と言えるかもしれませんが、これで公平と平等が達成できるかというと、それは無理です。少人数能力別クラス編成の問題点については第3章に明記されています。これを導入している学校や教育委員会は、できるだけ早くやめるべきです! 子どもたちのためにはもちろん、教師のためにも。(この教え方も、教師の教え方を改善することはありませんから。)
  この教え方は、子どものことは知らなくても/人間関係ができていなくても、教える内容さえ知っていれば、教えられるという前提にも立っています。この前提自体、成り立つでしょうか?


2017年9月10日日曜日

宿題について考えよう!


「思考停止」(=「葬り去ろう」)の第2弾です。
第1弾は、読書感想文と作文コンクールでした。

宿題については、https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170828-00010441-jprime-life の記事を読んだのがきっかけでした。
本末転倒なことが、当たり前化しているおそろしさを垣間見てしまいました。
というか、教育界の思考停止の象徴ともいえるようなことです。

この記事に関しては、下のようなフィードバックが仲間の先生から得られました。

宿題委託問題について

最近では、夏休みの宿題を業者に委託する家庭も多く、宿題請負ビジネスが成立しているようだ。
受験を控えている親子さんたちにとっては、いかに効率よく学校から出される夏休みの宿題を回避するかが問題。私の学級では、幸いにしてこのようなことはまだないが、それだけまだ牧歌的な地域なんだろう。

最近では、例年通りという名のもとに盲目的に学校から押しつけられてしまう夏休みの宿題に、とくに違和感を持つようになってきた。それは、日常の授業で、子どもたちと個別にかかわり続けることで、一人一人のニーズに応じた学びをつくることの大切さと難しさを感じているからだ。子どもの持つ家庭背景やその家庭教育力の欠損にも視野がいき、学校から一律、全員が同じように出される宿題について、だいぶ相対的に考えられるようになってきた。

あらかじめ、夏休みの宿題をやってこれないだろうと予測される子がいる。つまり、家庭教育にじっくりとゆとりを割けられない家庭の子どもたちだ。その子たちから「宿題を忘れました」と言われると、以前の私は「このやろう!先生からの愛のこもった(一方的な)宿題をやらないなんて!努力がたりない!」と思っていたが、ここ数年、「おしつけている心苦しさ」を感じてしまう。と共に、かたくなに前年度を踏襲するベテラン教員のもつコトナカレ学校文化を変えられないもどかしさの中にいる。

夏休みの宿題について子どものことは子どもの聞いてみる。それなりの本音を教えてはくれるけれども、それだけは本当の問題はみえてこないだろう。やはり、家庭でのイライラや徒労感をもって「いかに宿題をさせるか」といったムダな闘争を強いられている保護者からの生の声を聞いてみたい。そこで、さっそくインタビューをしてみた。

するとやはり、教え手の都合で出されている宿題と、学び手のニーズとの乖離が浮き彫りとなった。母親たちからは、それでも建設的な意見も聞かれ、希望を感じると共に、そのような可能性ある家庭を伸ばし切れていない現実に、申し訳ない気持ちとなってしまう。

以下、母たちの嘆きの声を一部まとめたものである。

★★★

小3男子の母親より
特に受験があるご家庭は、夏休みの学校の宿題どころじゃないのでしょう。親と夏休みの個人面談で、夏休みの宿題について話をするのはどうでしょうか。選択式でよいのではと。夏休みに、何を得たいかは、ご家庭で違うと思います。子供の成長について考える、良いきっかけなのではないかなと。わが家は、自由研究や読書感想文はオーダーしないですが、母がつくる学校指定の色んな縫い物は、すべてアウトソーシングしているので、気持ちがわからないでもありません。

小2女子の母親より
特に自由研究と読書感想文は、事前に授業でテーマとか、本選びとか、何をやるとか、子どもたちが先生と相談して決めてきてくれたら、とっても楽になると思います。あとは、夏休みに自由研究できるように図工室を解放してくれて、ちょっと相談できる先生がいたら、とっても嬉しいなーなんて。子どもだけで、できない宿題を出しているということが、親も子もストレスなんじゃないかと思います。グループで自由研究もできちゃいますしね。学校に作品を運ぶ手間も省けますし、子どもも楽しいのでは。

小4男子の母親
4年の弟は、今年は彼にしては自由研究をがんばって、休み明けにノリノリで持って行きましたが、ガッカリした様子で帰って来ました。工作をやらなかったので「忘れました」と誤った、と言ってますが、自由研究と工作のどちらかでいいとなってたはずなので、何故謝らなきゃならなかったのか、先生に聞かなきゃと思っているところです。いやー、そりゃないよー先生って感じよね!確かに今年は3つまで作品をつくってよいと、先生から作品を記入する小さな紙を持参してきましたよ。もちろん、出したのは一つですが。頑張ったのに、がっかりさせられるなんて、親子でがっかりだわね。

小6女子の母親
夏休みの宿題代行、毎年話題にのぼってて、受験生の我が家は、今年は、発注しよう!とマジな顔で、冗談を言って見ましたが、娘が、「いや~それはないでしょう」と却下。「じゃあ、忙しくても、やるんだね!」と本人の気持ちを確認した母です。でも、もう少し、学校で、導入部分を考えさせてから、出して欲しい。感想文の書き方なんて、一度も指導せず、6年間夏休みの宿題として投げられ、添削もなく終わる。意味があるのか?せめて褒めて欲しい。今年は、なんと、読書感想文がクラス代表で選ばれたので、喜んでいますが。。。本人、6時間かけて、1200字が書けないと、4回くらい書き直していたので、一言くらいは、コメントほしいですよね。文章嫌いを育てる読書感想文なんて、本末転倒ですから~(^^;

★★★引用終わり

お母さんたちの本音を聞いて、どう受け止められるか?

こういった声は学校には届いてこないので、宿題はアウトソーシングされるのである。よかれと思ってやっている学校からの宿題が、子どもや親を苦しめている。これは、学校の持つコミュニケーション不全の問題であり、勇気を持って生の声を聞いてみる対話の場が必要であり、学期末の授業参観では可能だと考えている。
家庭の声を好奇心もって聞くことで、学校はこれまで「かたまり」としてみてたクラスの子ども達が、生き生きとした一人一人の子どもの姿が浮かびかがってくるのではないだろうか。


2017年9月3日日曜日

教科担任制と中学校教育


 今回のPLC便りでは、先月(8月6日)に引き続き、私の経験を通してみた「教科担任制」をとる中学校教育の良さや特徴、課題とその改善案について、考えてみました。 

複数の視点からの「情報共有」による多面的で総合的な生徒理解

 小学校の「学級担任制」と異なり、中学校は「教科担任制」をとっています。国語、社会、音楽、美術、道徳、学級活動、総合的な学習の時間など、13種類(教科)もある授業は、教科によって指導する「教科担任」が変わります。授業を通して子どもたちにかかわるのは、そのクラスの学級担任一人だけではなく、学級担任を含めた約10人もの教師です。子どもたち一人一人の学力や個性、社会性の伸長などに対する責任は、学級担任を中心としてその学級にかかわる「教師集団」全員が負うことになります。 

 しかし、かつての私もそうでしたが、生徒が何か問題行動(例:喫煙や他校の生徒とのケンカ)を起こせば、まず第一に責任を感じるのは、学級担任でした。責任を感じる必要はないのですが、親心というか、自分が受け持っている生徒が問題を起こしたことと自分自身の学級担任としてのかかわり方を引き寄せて考えたときに、学級担任として何かできたのではなかったのかと考えたからです。 

■生徒指導は、生徒理解に始まり、生徒理解に終わる

私が勤務した中学校では、学級担任が子どもたち一人一人の生徒理解を深め、生徒と学級担任との人間関係・信頼関係をつくるために、「構成的グループエンカウンター」や「ピアサポートプログラム」の継続実践を行ったり、「班ノート」や「生活記録ノート」に取り組んだりしていました。 

特に「生活記録ノート」は、子どもたちに家庭や休日の生活について書いてもらい、さらに学習や学校生活に関する「ふりかえり(気づいたことや感じたこと、考えたこと、疑問など)」や「悩み(気になること、困っていること)」などを書いてもらい、学級担任が生徒の相談にのったり、他の教職員と連携したりして子どもたちの学校生活適応促進の支援を行うためのものです。しかし、最近のいじめ報道を見ていると、この機能を十分に生かしきれていない中学校があり、極めて残念です。 

中学校は、教科によって指導者が変わるわけですから、当然、子どもたちは、それぞれの授業ごとに異なる表情を見せたり、違う態度をとったりします。時には、休み時間や放課後に、生徒自身が悩んでいることについて、学級担任以外の教師に話をしてきたりすることもあります。 

教科担任や養護教諭、部活動顧問などからの生徒一人一人に関する情報提供によって、はじめて学級担任は受け持っている子どもたちについて、多面的な生徒理解が可能となります。この意味で、中学校では、「総合的に生徒を理解する」ための「情報共有」が極めて重要になってきます。 

実際に多くの中学校では、毎週、開かれる「学年会」や「生徒指導部会」、「学年主任会」、「職員全体の打ち合わせ」★などで、生徒指導上の情報共有がなされ、すべての教職員が共通実践する内容が確認されます。 

しかし、「いじめ」が大きな問題に発展してしまうような中学校は、生徒指導上の情報共有がきちんとなされていないのだと思います。 

■確実な情報共有の仕方

 私が勤務した中学校における生徒指導上の情報共有について、紹介します。 

教職員全体での「打ち合わせ」を週に2回(月曜日と木曜日の朝15分間)行っていました。月曜日の朝の打ち合わせは、学校行事など教育課程に関する確認や連絡などが中心ですが、木曜日の打ち合わせは、まったく違いました。 

木曜日の朝は、諸連絡は一切行わず、前日の水曜日の3時間目に開かれた生徒指導部会(構成メンバー:生徒指導主任、学年副主任、特別支援教育コーディネーター、養護教諭、スクールカウンセラー、教頭、校長)で出された生徒指導上の問題や課題、気になること、改善策などについて、生徒指導主任が概要を報告し、必要に応じて各学年から補足説明を行い、教職員が共通実践することの確認がなされるといった内容でした。 

このような生徒指導上の「情報共有」を、毎週、教職員全体で行うことによって、問題行動の防止や改善といった予防的・開発的な生徒指導が可能となるのです。 

■中学校教育のポイントは、学年チームを中心としたチーム指導・チーム支援

中学校では、学校運営のキーパーソンは「学年主任」です。それは、学年主任を中心とした学年職員から構成される「学年チーム」によって、生徒指導・学習指導★★、林間学校や修学旅行などの学校行事の企画・運営が行われるからです。 

また、学年主任は、他の学年との連絡・調整だけでなく、教育課程にかかわること(教務主任)、生徒指導に関すること(生徒指導主任)、研修に関すること(研究主任)、特別支援教育に関すること(特別支援教育コーディネーター)etc.管理職への報告・連絡・相談を含め、様々な校内連携・コーディネーションを果たすことが求められています。 

つまり、学年主任には、学校運営に直結している学年運営に関するマネジメントを行うこととリーダーシップを発揮することだけでなく、コーディネーターとしての役割を果たすことが強く求められているのです。 

 毎週開催される「学年会」では、学年の子どもたちに関する生徒指導上あるいは学習指導上の問題について、それぞれの学級担任や教科担任から出され(情報共有し)、具体的な指導・支援の方針と方法について検討します。「事例検討会(ケース・カンファレンス)」と呼んでよいと思います。ここで大切なことは、学年のメンバーだけで話し合うのではなく、必要に応じて、養護教諭、特別支援教育コーディネーター、スクールカウンセラー、校長・教頭に参加してもらうということです。★★★ 

■課題:生徒指導が前面に出ていて、チームを生かした学習指導が弱い

中学校教育の強みは、「チーム」で子どもたちにかかわれることです。学校行事や生徒指導については、学年主任や生徒指導主任を中心にして、マネジメントやコーディネーションができていますが、こと学習指導に関しては弱いと思います。そこで、中学校教育の弱点である学習指導に関する改善案についての提案です。 

1.現在の教科の枠を取り払い、チームによるカリキュラム開発と授業実践を行う

2.学級複数担任制の実施 

 1について、参考になるのが、新潟県上越市立大手町小学校の取り組みです。大手町小学校では、これまでの11種類ある教科の枠を取り払い、「生活・総合」「ふれあい」「数理」「ことば」「創造・表現」「健康」の6つの学びの領域に編成し直して、カリキュラム開発・単元開発を行ってきたのです。中学校でも、13種類もある教科を7~8つの「学習チーム」に編成し直し、お互いに連携・協同しながら、カリキュラム開発とそれに基づく授業実践を行うことができるのではないでしょうか。 

 2については、これまで多くの中学校では、学級担任と「学年担任(副担任)」がいても朝の会や帰りの会、学級活動、道徳、総合的な学習の時間などは、学級担任が一人で授業を行っていました。これを改め、可能な範囲で学年担任(副担任)も学級担任と一緒にティームティーチングで、これらの教科の学習指導にあたるのです。このことによって、生徒理解もよりいっそう深まります。もちろん、これらの教科のカリキュラム開発・単元開発を学級担任と学年担任(副担任)とが協同で行うのです。 

 1はチャレンジングな提案かもしれませんが、2については、やろうとすればどの中学校でも実現できるものだと思います。 



★ 中学校では、小学校に比べて学級担任以外の「加配教員」の数が多く、「生徒指導部会」や「学年主任会」などは、時間割の中に組み込むことができます。小学校の場合は、これらの情報共有・共通実践の検討・確認を行うための時間を、放課後に設定せざるを得ないのです。ここが小学校と中学校との大きな違いです。 

★★ 学年チームによって行われる学習指導には、総合的な学習の時間のカリキュラム開発と授業実践、進路学習(職業体験学習を含めたキャリア教育)、放課後や夏休みなどに行われる補習・学習支援、学年全体で行う学年道徳や修学旅行などの事前学習などがあります。 

★★★ これは、学校心理学における「チーム援助」の発想です。学校心理学では、生徒のニーズに応じて問題解決を行うために、「自助資源」(その子の強み)と「援助資源」(その子が信頼している友人や教師、養護教諭など)を生かして、「援助チーム」(その子にかかわる人たち:学級担任、教科担任、養護教諭、保護者、スクールカウンセラーetc.)をコーディネーションし、その生徒への支援・援助を行っていくのです。